第八話
朝の空を日が昇り、「紅雪閃光城」啻万麓を照らす。
城外を馬で駆ける圃韓は、南北に走る啻万麓の長大な城壁を背にし、朝日の方向へ向かう。城壁の向こうに聳える啻山が、老人とその愛馬の背中を見下ろしているかのようであったし、吹き下ろす冷涼な風は騎馬の背中を押すが如くだった。蹄が大地を蹴り、黄色い砂煙が舞う。
程なく圃韓の眼前に巨大な森が現れる。
茫漠とした黄土平原に広がる、針葉樹の森林。
啻林、という。
圃韓は啻林の樹間に馬を踏み入れることはせず、だいぶ手前で手綱を引き、馬蹄を停めた。
瞳の濁った眼を凝らして、ゆっくり首をめぐらし、啻林を遠望する。
― 『紅雪府長』による起死回生の一策から、百三十年。
己れの祖先である「紅雪府長」圃午の事績に想いを巡らす。圃午の戦術によって、啻万麓が、そして因州美家がその滅亡を免れた啻林の戦いがあったのは、丁度130年前の眞暦1676年である。
― その戦で、喋投讃公がこの森に伏せ、啄飯道軍二十万の背中を斬り刻んだ。
啻林の戦いについては既に語っているのでここでは割愛するが、圃韓と州の現龍牙である喋工励のそれぞれの祖先が、啻万麓を襲った啄飯道を迎撃し、殲滅した戦のことである。これにより、啄飯道に首都を屠られる寸前まで追い込まれていた因州王家は、一気に形勢を逆転した。
その為、因州州民にとってこの啻万麓郊外に広がる啻林という森は特別な場所であるし、その当事者の嫡流である圃韓にとってはもっと大事で、或る種聖域化していた。
初秋の朝、森は静かである。
杉の梢が無数に立ち並び、すべてが空を刺すように尖鋭だった。
馬上、枯れ枝のような彼の痩身は微動だにせず、ただ背中からの西風に長袍の裾をはためかせながら、そんな森を眺めている。
― 啻林以来、圃喋両家は因州守護の宿命を負う。啻林の戦いで主家を救い、史上に名を刻み、そして自他共に認める因州美家の柱石となった。政も軍事も、州王家に変わって両家が担うほどに。しかし ―
広大な森、茫漠とした黄土平原を見渡しても、圃韓の他誰もいない。しかし圃韓の独り言は頭の中で呟くだけで、決して声には出さない。
― わしはその責を放棄する。
その時、圃韓の老いた顔には干し柿のように無数の皺が寄った。
― いや、わしの代でそんなことになって本当に良いのか。簡単に決していい事ではない。なあ、喋工励よ。どう思う。
そして、そこにはいない朋友に問いかけていた。
― 喋工励にまた会いたい。
圃韓は後ろを振り返った。
背後遠く、啻山の麓に横たわる啻万麓の城壁が、朝日を浴びている。あの壁の向こう、街の一番奥に、州龍牙の喋工励の邸宅はある。もう起きているだろうか。院子で一人、せり出した腹を揺すりながら大刀の調練でもしているだろうか。
白い眉をハの字に寄せる。
― あいつはわしよりも、聡い男だ。勝てぬ戦はせず、無駄な死を嫌う。相談したとて、聞こえぬふりをするだろう、そして決して美獣公子に逆らわぬ。
悲しいかな、長年の朋友がどう考えるか、会って聞くまでもなく圃韓には分かってしまう。圃韓の眉間に幾本もの皺が刻まれる。残酷かつ哀しい想像であり、その表情は苦痛そのものであった。
と言って、自分まで公子に尻尾を振って良いのか。
わしは州王・美宜粽から直々に秘命を受けたのだ。
― なればこそ、やるのだ。
再びいつもの鋭い白眉に戻る。
「申し訳ありませぬ。紅雪府長、喋投讃様。」
そして、今度ははっきり声に出して言った。
「我が圃家は、地上から消えまする。」
暗い覚悟が、濁った瞳に宿る。
鞍上に、痩せ衰えた老体を乗せ、啻林をしばし眺めている。
秋風に吹き込まれた森は、乾いた音を鳴らしていた。
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「準備は既に出来ております。」
圃韓が自邸に戻った時、すでに日は南中、昼光が差し込み紅白の光線が邸内を満たしていた。
待ち受けていた穆薀は膝をつき、主の言葉を待っている。
「啻林に行っておった。待たせたな。」
これを聞いた時、隻眼の家宰、穆薀は右の眉を上げた。主君に何か言おうとしたが、圃韓の様子を見て言葉を飲み込んだ。一瞬表情に出た翳りをすぐに消し、
「はっ。では、こちらへ。私と握放元の二人がお伴致します。」
立ち上がって、圃韓を誘った。穆薀は丈の短い黄檗の袍をぴっちりと身体にまとっており、長旅の準備を整えている。
9月8日昼。
因州第一大臣の圃韓は、近臣二人のみを連れて啻万麓を発し、馬で南に走った。
行く先は、封地の國朶鎮。
主従は、死地へ発った。




