第壱話
その果ての見えぬ曠大な因州平原に、麦畑が広がる。麦は黄金色に穂を揺らし、彼処で刈りとられている。収穫の終わったあたりには耕土が黒く露出している。
眞暦1806年9月8日。
冷涼な秋は北国を覆い、夏を因州から早々に追い出した。
夕日の下、疲れ果てた農夫たちが収穫の手を止めつつある。
「だいぶ日が傾きましたな。」
穆薀はその隻眼に手をかざす。黒と黄、収穫済みの耕土と未収穫の畑とに明確に区切られ、西日に眩しく照らされている。そして、穆薀の顔半分を隠す金糸の眼帯もまた、日を跳ね返している。
「確かに。夜になる前に宿を確保しないと。」
穆薀と馬を並べる握放元が尻顎を振って頷き、二人の後ろで圃韓が老体を鞍上に揺らしている。
啻万麓を飛び出して、数時間。
圃韓、穆薀、握放元の主従三人は荒野を駆け、今は州都近郊の穀倉地帯を進んでいた。
穆薀は、麦畑の中を真っ直ぐ貫く一本道を遠く見通してから、言った。
「この辺りの郷村は状旺隕の所領、彼のことは私がよく知っておりますれば、今夜はそこで宿を借りる手筈。あともうすぐ、左手はるかに叢林が見えまするがそこまで行かず、右手手前の、聚落がございますでしょう、そこに邸がございます。」
馬に揺られる穆薀が振り返り、圃韓に提案した。背に負った大きな行李がきしむ。
しかし、
「其奴、信用できるのか。」
圃韓は疑問を呈した。
穆薀は少し驚いた。圃韓からは全幅の信頼を受けてきた自分だ。確かにこの國朶鎮への疾走はおおっぴらには出来ぬ、いわば隠密行。白昼堂々と州都を出たが、その実三人の胸には州王からの秘命が仕舞われている。その旅程初日の宿だから、慎重になるべきだが、そんな懸念は家宰である自分に任せておけば良い。
― いかがされた、州龍眼 ―
首を後ろに捻った状態で、
「はい。私の旧知、口が硬く、小領主ながら州王に忠誠を誓う者でございます。」
と言いつつも、穆薀はしばし困惑した。
いや、それ以上に主である圃韓の方が苦悩を隠さず、渋面を作っていた。
「穆薀。わしがお主が手配した宿を疑うはずなかろう。宿としてはよい。しかし今、わしは、ひとつ、話をしたいのだ。」
「あ。はっ、では。」
握放元はまだ意味を飲み込めず、キョトンとしているが、穆薀は、即座に合点して気を回し始めた。
― 密議か。
國朶鎮での美獣迎撃戦については、もっと啻万麓から離れてから策を練る積もりだったが、まあ早いに越したことは無い。兎も角圃韓は、そうした策戦協議を宿でやるのがお嫌なのだろう。
「まだ予定の時刻までは間がありますれば、そうですな、一度あの叢林に入りますか。」
「うむ。そうしよう。」
圃韓が首を伸ばして、森を遠望した。
聚落を駆け過ぎ、2kmほど走って叢林に行き着く。それは白樺の群生であった。白昼なれば木肌の白が輝く明るい森であろうが、夕暮れともなれば様相は異なり、魔物でも巣食っていそうな陰鬱な叢林に変わる。
「ふん、適当よ。」
圃韓は馬で獣道を縫いながら、呟く。これくらい暗い方が密談にはよいのだろう。頷くと穆薀は、
「森に深入りして迷うと厄介。この辺りでいかがでしょうか。」
と提議すると、
「うむ、そうだな。」
圃韓も同意した。
鬱蒼とした薄闇の林。細く樹間に差し込む夕日は弱々しい。虫の音が涼しげに鳴り響く。
三人が馬を降り、白樺の幹に手綱を繋ぐと同時に、圃韓は力強く言った。
「美萊峩様を味方に付けたい。」
「え。」
穆薀は目を丸くした。無理に決まっている。昨日も言っていたから、圃韓はかなり執着しているのだろう。この策に、いや夢想、幻想に。
「それは難しいでしょう。昨日も申し上げましたが」
虫の音がなぜか止んで、穆薀の声が大きく聞こえた。
「美萊峩様は合理的な方、強大化した美獣様とは、事を構えますまい。」
「力量は上回る。」
圃韓の濁った目が、穆薀を覗き込む。
確かに一個人としては、弟である美萊峩の方が美獣よりも優れた能力を有している。
政治、武勇、芸術、そして人徳 ―
「しかし」
穆薀は諌めようとした。
美萊峩は決定的に野心が不足する ―
だが、圃韓がかざした枯れ枝のような腕に制された。
「美獣様と美萊峩様は相容れぬ。楔を打てば、お二人は割れるはずだ。現に美萊峩様は叶會亭に留まり、美獣様の軍に参加しておらぬ。兄とは一線を画しておるのだ。」
「距離があります。恐らく美宜粽州王の監視」
「言うな、穆薀。」
圃韓の眼は思いつめたような色を帯びていた。
「わしは決めた。契冬蹊を呼べ。彼女に使いをさせる。」
「ぐっ。」
穆薀はつい呻いた。
圃韓や握放元に聞こえたか、どうか。
― 契冬蹊を、かような無茶な任務に?
穆薀はそんな割り切れぬ思いを抱いた。だが、それは一瞬である。
人差し指を口に入れるや、
ぴーっ
と、短く指笛を鳴らす。
その直後に、三人の真ん中へ人が降ってきた。
「お呼びで御座いますか。」
女郎蜘蛛のように手足の長い女が、跪いている。
契冬蹊だ。
「ぬっ。も、もう現れたか?」
圃韓は心底驚いたようで、後ろによろめいた。
穆薀は一重の大きな隻眼を閉じ、
「はっ。啻万麓から我らに並走させ、潜行しつつ周囲への監視をさせておりました。」
と、抑揚のない声で報告する。
「流石よ。契冬蹊も、穆薀も。」
圃韓は驚きが収まらぬ。契冬蹊は忽然とそこに出現したかのように見えた。まさに魔術の如きである。
胸に手を置き、咳をしばし我慢してから、圃韓は消え入りそうな声を絞り出した。
「契冬蹊よ。美萊峩様のもとへ急行せい。そして、圃韓からの要請として、美宜粽様からの秘命を全うすべく、我が圃軍と合して美獣様の侵掠軍を迎撃頂きたいと、伝えい。戦場は我が國朶鎮城、圃韓と穆薀はもう向かっておる、とな。」
それを聞いた契冬蹊は、
「はっ。」
と、栗鼠のように小さな顔で頷き、明確に承知した。しかし鋭く吊った眼は少し泳ぎ、その横、馬上の穆薀と視線が合う。
(きっと。死ぬ。)
穆薀は己れの情婦が無駄死にすると予感し、その瞳は哀愁を帯びた。美萊峩様の籠絡なぞ、到底不可能 ―
契冬蹊は視線を逸らし、圃韓に向けて頭を下げた。
「今すぐ参ります。」
そして言い終わるや否や、忽然と消えた。
正確には、飛び去ったのである。助走もなしに樹上に飛び上がり、木から木へ猿の如く渡って行った。
(さらばだ。)
穆薀はしばし、女諜者が消えた方向を見つめていたが、
「よし、これであとは運を天に任せればよい。穆薀よ、さっき言っていた宿舎に入ろう。」
圃韓にうながされ、馬首を巡らせた。
三人は、夕暮れに沈む暗い森を出た。
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大陸全体図
穣界十二州
因州
國朶鎮
啻万麓




