第伍話
「穆薀!貴様」
穆薀は、喚き散らす圃戒仕を、配下の握放元とともに縛り上げている。
「主君に対して、何だこの振る舞いはっ。父上も何故に黙っておいでか。」
穆薀は眼前で暴れる圃戒仕に対し、内心では毒づき、罵倒し、唾棄している。だが口には出さぬ。ただ、その隻眼に獣のような光を宿し、黙ったまま焼けつくほどの怒気を放っているのみである。
穆薀と握放元という、屈強の武人二人によって籠手籠手に縛り上げられた圃戒仕は、跪いたといえば聞こえはいいが、殆ど床に転がされているようなものである。縄の一端を、父の部下である穆薀に握られ、全く自由が無かった。
「父上」と問いかけられた圃韓はどうしているか。
惨めに縛られた嫡男を足元に見下ろしながら、喉の縦皺をただ震わせていた。この夜、房室内の燭燈は少なく、老人の皺が幾重にも影を作っていた。
あの自尊心の強い我が子が、これほどの縛めを受けて、今どれ程の屈辱を味わっているのだろうか― 父である圃韓の気持ちを慮ると、穆薀の心は痛んだ。
圃韓の右手には、穆薀が入手した密書が握られている。
「父上っ。そんな書簡一枚で、我が子をこのような恥辱に塗れさせますか。私と父上の間を裂くために、何者かがこさえた偽文書に相違ありませぬ。読んでみて下され、急度私の文ではございませぬっ。」
激しくまくし立てるが、縄はかなり厳しく締められており、「よくもこうまで叫べるものよ」と穆薀はなかば感心した。そして圃韓の方を見遣る。
圃韓の方はといえば、枯れ木の如く立ち尽くし、白く濁った瞳には常の鋭さが無い。
(さもありなん。)
手筈では、圃韓が右手に持つ密書を読み上げ、圃戒仕を断罪することになっていた。
(因州第一大臣とはいえ、子を思う一人の父親に過ぎぬ。いざとなれば、どうにもならぬ情もあろう。)
穆薀はひたすら冷静に思考する。圃韓は今、情が邪魔して動けないのだ。
(なれば、家宰が断ずるまで。)
一瞬で肚を決め、圃戒仕を縛る荒縄をぐっ、と握り直した。
「それでは圃戒仕様。州龍眼がお持ちの密書、家宰である私が読みましょう。」
そう言って、跪く圃戒仕の正面に立ち、記憶している密書の文面を諳んじた。
「前略。州王、我が父圃韓に下命、國朶鎮にて公子の西進を止めよ、と。是れ、九月七日昼のこと也。圃韓、一族挙げて下命に従わんとすれども、我は國朶鎮に入城の後、内より城門を開け、公子の軍を招き入れん。父圃韓、その封地國朶鎮が処遇は、公子の随意。ただしこの圃戒仕、只管に公子に随身を誓うものなれば、戦後はその幕下にお加え給え。
因州公子
因州龍眼代 圃戒仕」
淀みなく言い切った。
そして勢いよく振り向き、背後に立つ圃韓に無言のまま同意を求める。
圃韓は力無く頷き、
「相違ない。家宰の申したこと、この密書に一言一句違わぬ。戒仕、お主の文字じゃ。言い逃れは出来ぬ。」
しゃがれた声でようやく喋った。
「ぬがあっ。」
圃戒仕は、芋虫の如き縛めの身体で穆薀に向け突進したが、軽く躱され、そこらの椅子を倒して転がった。
足を上にして転がったまま、
「穆薀、貴様が捏造した偽文書であろう!わしや圃詩北を排除して、この名家圃家を乗っ取る魂胆であろう!」
叫ぶ。
彼の三白眼はいよいよ鬼気迫り、こめかみの青筋が幾筋も、のたくっていた。
穆薀は、縄尻を思い切り引っ張った。
「ぎゃあっ」
途端に圃戒仕の身体は宙に浮き、そしてだん、だん、と石床に弾んだ。
「やかましいっ、謀反人め!」
多くの戦場で「檗輪単眼」と恐れられた武人の一声だ。
所詮青白い文官に過ぎぬ圃戒仕なぞは、この大喝を受けて、雷に打たれたように硬直するしかなかった。先程までの元気は俄かに消え失せ、顔面蒼白、すくみあがった。
穆薀の隻眼は獣の如き眼光を、最早隠さない。石床の上に縮こまるがんじがらめの圃戒仕を右足で力任せに踏みにじり、殺意に溢れた視線ではったと睨みつけ、
「汝、我が圃家に害為す者。家宰穆薀、これを処分す!」
腰の蒔舟刀を抜くや、身動き取れぬ圃戒仕に向け一閃。
声を上げる間も無く、圃戒仕の首は吹っ飛んだ。迸るどす黒い血の尾を引いて数m滑空したあと、ごろごろと石床を転がった。
(せめて、圃韓様の方に飛ばなくて良かった。)
一重の割に大きな眼で、前方の生首を冷たく見ながら、穆薀は背後の気配を探る。
音のないため息が、聞こえた。そして、
「穆薀。良くやってくれた。」
しゃがれた声が背中に投げかけられた。
9月7日深更。
月光の射さぬ圃韓邸最奥の上房に、痩せた生首が転がり、僅かな燭燈に照らされている。
凄まじい痛恨の表情で、父とその部下を睨みつけたまま。
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女諜者・契冬蹊は、我が家に向かって夜の啻万麓を疾風の如く走っている。
この日は州王府や咆倆區など州都の諸処を探り、夜も更けてから穆薀へ報告した際、彼から誘いを受けたがそれを拒否して帰宅の途についた。
何故断ったのか分からぬ。
嗜虐的な穆薀の命は絶対であったし、契冬蹊自身、娘の居る自宅で受ける仕打ちに近い情事を、甘美に感じていた。いつもなら諾々と、なかば喜んで誘いを受ける。
それを何故?
穆薀の表情にこれまでに見た事がない、鬱々とした影が差していたからか。それとも今宵は穆薀抜きで、娘との時間を大切にしたかったからか。
恐らく、その両方であったのだろう。
契冬蹊は自らの心情に首を傾げながら、程なく啻万麓の東部、城壁に近い民家がひしめく界隈に至り、その中の小さな一軒の前に立つ。
それが彼女の家である。
周りの家と同じように間口は狭く、ボロボロにささくれた石の外壁が月に照らされてみすぼらしい。門前の楓はまだ色づいてないが、その枝ぶりは貧弱で、初秋の月夜を寂しく感じさせた。
契冬蹊はすぐには門内に入らず、栗鼠に似た小さな丸顔を傾げ、少し思案してから足を進めた。
砂礫を踏み、小さく、じゃり、と音が鳴る。
契冬蹊の長い睫毛は突き刺すように虚空に尖り、吊った眼は常に増して鋭く、家中に向けて殺気を放っている。
大門から入らず、蜘蛛のように細長い手足をくねらせながら、隣家との間隙に身体を滑り込ませると、器用に身を進めて行く。小さな換気戸を音もなく外し、縄抜けの曲芸よろしくこれもすり抜けて、我が家に侵入した。
小さな家である。もう眼前の扉を開ければ、その向こうは娘と日々を過ごす房室だ。
扉を厳しく凝視する契冬蹊は、音のないため息をついた。
そして勢いよく扉を開けた。
と同時に、闇の中に鋭利な閃光が四つ発し、その全てがまっすぐ契冬蹊に向かってきた。
(十字投か)
ぐにゃり、と肢体を縮めると、宙に浮き、四本の閃光は契冬蹊の上下左右を飛び過ぎて行く。
契冬蹊は床に着地すると、一気にその長い手足を伸ばし、跳躍した。
「ほら、寝首を掻かれた。」
次の瞬間、契冬蹊は少女を組み敷いていた。
少女は、愛娘の契寿であった。
左手と両膝で契寿の両腕を抑え、右手の短刀を首に押し当てている。
「うっ。」
契寿の目も鋭い。就寝中だったこともあろうが白目が血走っており、母にしてやられたのが余程悔しいようで、下から契冬蹊を睨みつけている。悔しさが過ぎたのか、契冬蹊の技が鋭過ぎたか、ともかく契寿は幼い顔を歪めたまま言葉を失った。
契冬蹊はしばし我が子を押さえつけた後、軽く後ろに飛び退くと、
「そこへ、お座り。」
と言って正座した。
既に、門前で見せていた鬼気迫る表情と異なっている。厳しいながらも吊り目は従来の如く、濡れた瞳には慈愛の色が浮かぶ。
「は、はい。」
襲撃者から、我が母へ。
蜘蛛のように手足の長い眼前の女性が、急激な変化を見せるのに戸惑いながらも、娘は立ち上がり、指示に従って床の上に端座した。
目立たぬ一諜者の隠れ家は、壁の隙間から差すごく細い月光の一条以外は、深更の暗さに沈んでいる。
「寿。」
「はい。」
契冬蹊はこれまでにない感覚にとらわれていた。
― 今宵の娘との時間を大切にしたい。伝えるべきことを今夜伝え切らねばならない。
灯りもつけず、闇の中の娘に語りかける。
「門外に殺気を感じ、目を覚ましたわね。」
「はい。」
「まだ見習いの諜者であるお前としては、よく出来た方でしょう。ただ、私は敢えて殺気を強く発したの。本当の暗殺者なら出しゃしないわよ。気配すら消す。」
「は、はい。でも、それだと手練れに本気で寝込みを襲われたら、防ぎようがないってことなの?」
「もっと全身を耳にして、触覚にして、僅かな音を、気配を拾いなさい。死にたくなければ、寝ている間でもそうするしかないわ。」
契寿が途方に暮れた表情で頷くのが、暗い室内でも見てとれた。
諜者の師である母は、娘を叱るばかりでなく、褒めもした。
「十字投は正確だったわね。私だったから躱したけど、余程の刺客でも四本すべては避けきれまい。」
「ありがとうございます。」
「技術はもう教えることはないわ。あとは闇に生きる精神を身につけること。その為にも嚇凛様のお役に立つこと。率先して諜者の任に当たりなさい。」
「はい。」
「どんな困難な仕事も買って出なさい。そうすることで経験を積み、技術を磨き、嗅覚を研ぎ澄ませてこの乱世の気を読み切るの。」
「は。」
まだ十二歳の契寿には難しい話だったか、少しく当惑した様子を感じるが、同時に不安を募らせているようだ。
「嚇凛様にお仕えしていれば大丈夫。あの方は失脚なぞしない。」
娘が不安に思うのも、当然である。
娘が仕える嚇凛が失脚しないなら、契冬蹊が仕えている圃韓はどうなのか。
そして契冬蹊がなぜ、今夜に限ってこんな訓示をするのか。
この後、何が起ころうとしているのか。
契寿は今、母が期待する嗅覚を発揮して、様々なことに思いを巡らせているのだろう。無言のまま、ピリピリした気を闇の中に発している。
(やはり、今夜娘と話せて良かった。)
滅びの予感に身を包まれながら、契冬蹊も無言に落ちる。黙した母娘の発する茘枝に似た体臭が、小さな部屋にたゆたう。
契冬蹊の背後。
女郎蜘蛛を柄に彫った小刀が四本、先程の侵入口が開く壁面に突き立っていた。十字を描き、か細い一条の月光に鋭利な刃を鈍く光らせて。




