第四話
叶會亭。
啻万麓から南東へ40km離れた小城市である。日は傾き、初秋の夕陽が堅牢な城壁を照らし出し、積み上げられた無数の磚が細かな陰影を浮き立たせている。
その城主府には因州王・美宜粽の次男、美萊峩が静かに座っている。
「そうか。4日に輜重隊が進発したとは聞いていたが。」
鈴のような凛とした声が、上房に響く。
彼は今、父、美宜粽からの使者を引見している。造形の彫り込まれた白石の椅子に深く腰掛け、鮮やかな青の長袍が座面から垂れる様も、ひどく優美だった。
長い睫毛を優しく瞬かせ、
「ご苦労だった。今夜はこの城でゆっくり休み、明朝発つがいい。」
手を打って侍童に使者を案内させた。宿舎や晩餐も、事前に手配済みである。
使者や侍童が退室して数分、美萊峩は房室に独りとなり、肘掛けについた手で尖った顎をゆっくりと撫でていた。
(やはり本隊も囿治果を出たか。兄上の狙いは秦州侵掠に違いない。)
我が兄の一挙に思いを巡らせていると、扉の外からコツ、コツ、と床を突く硬い音が聞こえて来た。これもまたゆっくりしている。
それはやがて扉の前で止まり、あとは沈黙した。
「ふっ。」
美萊峩は顎をあげて、形の良い唇を開いた。
「韋吏麻曖。よい、入れ。」
美萊峩に促されて、若い女性が入ってきた。
黒髪を束ね、長い睫毛を伏せがちに瞳へ被せ、
「お邪魔でしたでしょうか。」
と、消え入るような声で言う口は、小さく可憐であった。瓜実の長い顔は、北の渤方人に特徴的な真っ白な面である。
だが、この韋吏麻曖の第一の特徴といえば、この美しい顔ではない。
彼女は、両脚が義足であった。
左右とも膝から下が木造の足だった。
杖も付かず、器用に両の義肢を交互に踏み出し、ゆっくりではあるが、歩いている。
コツ、コツ。
広い上房の石床を横切って来た。
美萊峩は、近くまで来た韋吏麻曖の手を取り、
「ちょうど良かった。考えをまとめたかったのだ。」
そう言って立ち上がり、左方に置かれている椅子へ誘った。韋吏麻曖は恐縮したように肩をすくめながら座り、美萊峩もまた自席に戻る。
「あの…」
韋吏麻曖は、おずおずと問う。
「美獣公子はやはり動かれましたか?」
「ふふ。」
美萊峩は、そんな韋吏麻曖の人形の如く整った顔容に、優しい笑顔を向ける。
「さすが、麻曖。話が早いな。」
「いえ…」
とんでもない、と韋吏麻曖は眼を見開いた。二重目蓋から真上に跳ねる睫毛は、風が吹けばそよぐ程に、長い。
「あの8月18日、美萊峩様が囿治果の城主府で聞かされた内容は、この妾にお教え下さっています。あれから半月、美獣公子が戦備を整えた、そして美萊峩様の意思が今、拘泥している。そう推量しただけにございます。」
「分かっているよ。お前が使者の話を立ち聞きしたなんて思っておらんよ。」
そう言って美萊峩は、韋吏麻曖の瞳を覗き込んだ。
白面の頬だけを紅く染めてから、韋吏麻曖はうつむく。しかし、己れの義足に目線を落としたまま、彼女は話しだす。
「恐れながら…。8月のお話の通り、美獣公子は秦州に侵攻を開始されました。美宜粽州王はそれを許せないが、止めることが出来ません。州龍牙も州都相も、公子の影響下に入ってしまい、州王の言う事を聞かないからです。そして美萊峩様にも兄を止めるようには下命しません。大事な美萊峩様を、あの恐ろしい美獣公子に突っ込ませる訳に行かないからです。」
小さくか細い声で、語る。
しかし、まさに美萊峩の考えをまとめるべく、此度の事象を見通した話し振りは、そら恐ろしい程に自信に溢れていた。
韋吏麻曖は引き続き、呟く。
「でも…。美萊峩様が千の兵をもって夜営中の美獣公子に突っ込めば、勝てまする。」
ここで珍しく、美萊峩の眼が吊り上がった。
「なっ」
我が主が狼狽しているのにも構わず、韋吏麻曖は続ける。顔はうつむいたままだ。
「武勇では、美獣様より美萊峩様の方が数段上。叶會亭の精兵は手足の如く動き、公子をきっと討ち取りましょう。とは申せ、これは下策。お止しになったがいい…。」
小さな若い女の囁きは、微風のように美萊峩の耳を舐めていく。彼は目を瞑った。もう、女の話を聞くしかない。
「公子に、覇道を行かせたがいい。十中八九、龍は天に昇りましょう。その為に…、美萊峩様は遅参でもいいので、侵攻軍に合流下さい。美獣公子に付き、美宜粽州王とは手をお切りください…。」
美萊峩は目をつぶり、数分。想いに沈んだ。
その間、韋吏麻曖は椅子からぶら下がる己れの義足をただ、黙って見つめていた。
やがて、美萊峩は目を開けた。
「お前が一緒に参軍してくれるといいんだが。」
ゆっくり首を振った韋吏麻曖の声色は、ひどく寂しげであった。
「以前とは違ってこの足。お邪魔になるだけですわ。叶會亭の街に籠って、天下を妄想するのが、今の私にはお似合いなのです。」
惜しいな、と言葉をかける美萊峩の眼は、再び優しいものになっていた。
9月7日。
もう日は沈んだだろう、足元の石床は冷たい。
コツ、コツ…
韋吏麻曖が坐り直してその義足が床を打ち、無機質な音が房内に響いた。
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啻万麓は薄い月明かりの下、夜に沈んでいる。
穆薀は、圃戒仕邸をぐるりと囲む壁を物陰から見ている。
壁には一箇所、小さな木扉が設えられており、今はぴったりと閉まっていた。大門は反対側にあり、この扉は裏口である。邸の使用人が多く使う出入り口で、日々の利用頻度は低い。
(あと一時間だな。それでも来なければ握放元たちとともに退こう。しかし)
暗闇に目を凝らすと、穆薀の高い鼻梁だけが認められる。
(臭う。)
穆薀は、圃戒仕邸裏口に対面する某官僚邸の壁にへばりつき、うまく月影に身を隠していた。気配を消して何事かを見張っているのだ。
気のせいだといいんだが― と言葉には出さなかったが、彼の厚い唇がそう動いた。正確にはその様子も暗闇で見えないのだが。
きぃ
存外大きな音が穆薀の耳に届いた。
(やはり)
心中で舌打ちをしつつ、月影から反射的に飛び出した。
小木扉を開けて出てきたのは、小男である。圃戒仕邸ではもっとも年長の下男で、穆薀も知っている顔だった。
下男は扉を閉めて振り向いた瞬間、腹部に打撃を受けて気を失った。
気配を消した穆薀が音もなく襲いかかり、靴の硬い爪先で鳩尾を強烈に蹴り上げたのである。
気を失う瞬間、下男の表情は当然激痛に歪んでいたが、半分を金糸眼帯で覆った穆薀の顔を認めて、その眼に悔恨の色を浮かべていた。ぐったりした下男の身体を抱きながら素早くその懐をまさぐり、穆薀は一通の書簡を取り出した。
(これは)
書簡に目を通した穆薀の憂いに満ちた右半分の顔は、それこそ激痛を感じたかのように歪んだ。
(どうにもならんな。)
月明かりの下、圃家家宰の「檗輪単眼」穆薀は下男を軽々と背負うと、その場を去った。
その足は夜風と同じ程に速く、そしてその横顔は秋の夜気よりも数段、冷たいものだった。




