第九話
眞暦1806年8月31日。
8月最後の朝、國朶鎮は雨にけぶっている。
いつもなら黄褐色に乾くこの街も、今朝は表情を変え、厚い雨雲の下、全ての建物が濡れた土気色に沈んでいた。
國朶鎮の混みいった路地に建つ、小さな家。四角い門の上にとまる鳥の彫刻七羽は、翼を広げ、嘴を開き、哀しげに啼いているように見えた。
家の中には、髪の長い瓜実顔の美しい少女が一人、小さな椅子にちょこんと腰掛けている。
「黙ってます。私は。」
顔は青ざめ、頬はこけ、それでも整った相貌の美しさは損なわれないが、鬼気迫るものはあった。
少女の姓は田、名は濫。
田家はかつて、國朶鎮有数の絹問屋であり、州王家に取り入る政商であった。だがものの二代で急速に落ちぶれ、もはや田家の生き残りはこの少女一人、かろうじて圃家から化粧料名目の捨て扶持を貰って身を保っている窮状だ。
だが田濫はその美貌で、有為な若者から寵を得ることに成功した。
その若者とは、吼了欽。
圃家の正規武官であり、先の戦役でも手柄を立て、この先の展望が明るい男だ。吼了欽の歳は十九、田濫は十六。年齢も釣り合い、吼家も古い武門の家であるから、互いの家格も釣り合う。このまま婚姻を結べば、田濫の人生は一気に表舞台へ戻り、以後の暮らしも安定しよう。
しかし、そんな田濫の皮算用を許さぬ現実があった。吼了欽が三日も家に寄らなかったのである。
原因は分かっている。
「黙ってます、私は。吼了欽様が立身されるのを、この小さな鳥の家から見守っています。」
卓に載る油粥も最早冷め、白い匙が椀の底に沈んでいる。それでも田濫の右手は匙を取らず、その痩せた体に似合わぬ大きな菜刀を握り、力なくぶら下げていた。そして貧しい汁椀を覗き込みながら、少し目尻の下がった穏やかな貌容に緊張感を走らせ、なおも独り言を続ける。
「殺したかった。」
菜刀に、鈍いつやがある。
「28日に、肩をそびやかして街を歩いていたあの女に違いないわ。吼了欽様が仰っていた囿治果の女武官。」
雨の朝に、窓は暗い。
刃に射す光源もない。だが、菜刀はよく研いであって相当の斬れ味と思われた。
囿治果の女武官とは ― 斐醺に違いない。
あの時、國朶鎮の城民がみな、斐醺に振り向いた。ぱっ、とそこに花が咲いたかのような鮮烈。薄桃の長袍を翻し、白く光沢ある軍靴は自信に満ち、カッカッと黄褐色の道に跫音を刻んでいた。
眩しかった。
必死になって男にかじりつき生きていこうとする自分。一方、己れの足でしっかり立ち、巨大な因州王府の中で頭角を現している女武官。
即座に、羨望が嫉妬へ変貌する。身を締め上げるような僻み、妬みが田濫を支配し、そして人生かけて愛そうとしている男を奪われて、怨念が殺意を産んだ。
右手の菜刀が重い。
昨夜、街を行く斐醺を襲わんと暗がりに潜んだが、夜陰ということもあろう、女武官は目配りの鋭さ尋常でなく、非常な警戒をもって歩いていたのである。戦闘の素人である田濫でも、斐醺の隙の無さは一目瞭然、呆然とまた菜刀を引きずるようにして帰宅するほかなかった。
田濫は、まっすぐに座り直す。
「相手が斐醺様では、無理。」
ガラン
菜刀を床に落とし、右手に匙を取った。そして椀の粥を掬う。
ゆっくりと、しかし着々と粥を口に運び始めた。
(どうせ、あの女は國朶鎮にずっといる訳じゃない。)
水の音は、田濫が粥をすする音か、それとも鬱々としたこの夏最後の雨の声か。
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斐醺は馬上、遠くなりつつある國朶鎮の城壁を眺めている。雨に打たれる城塞都市は、濡れた土気色に身を染め、黄土の平原に横たわっていた。
(楽しかったわ、吼了欽。)
國朶鎮での三夜は、夢のような時間だった。甘い闇の中に繰り広げた情事を思い起こし、面長な白面をほんのりと桃色に染める。
主人の昂奮を察したか、馬もぶるぶると鼻を鳴らした。
そこへ、
「斐醺さまあー」
と濁声が響いた。隠微な想像を打ち破られ、斐醺の白い眉間に縦皺が寄る。囿治果で使っている伝令が、馬腹蹴って駆け寄っていた。
「何よ、こんなとこまで。」
「昱左様が出奔ですっ。」
「えっ」
伝令は斐醺の真横に馬を付けると、ぜいぜいと息を切らし、馬首に伏し、雨に濡れたたてがみに顔を埋めた。
「本当なの?」
「あ、ちょっと。息が、いま。」
斐醺は、疲れ果てた伝令の襟首を鷲掴みにし、
「あんた伝令でしょ。まだちゃんと伝わってないわよ。イクサって、当家所属の本草学士、昱左のこと?」
怒鳴りつけた。
「は、はい。その昱左様でえす。」
伝令は、のどから笛のように乾いた音を鳴らしながら、必死に答える。
「出奔?」
「去んぬる23日。明け方に斐色矜様が起床さ、れ。起床された際、すでに昱左様のお姿が貴邸には見えなかったとのこと。」
「何か文はなかったの?」
「ありました。こちらです。」
伝令は懐から畳んだ一紙を取り出す。斐醺は伝令の襟首から手を離し、彼の汗に湿った書をその手からむしり取って、眼前に開いた。
柔らかな筆致が美しかった。
(申し訳ありませんが、お暇乞いをいたします。これまでお世話になりました。秦州に行けないなど勝手を申し、斐醺様の使用人たる資格はございません。恐らく今後、秦州への往来は頻繁となりましょう。秦州に随行できぬ私では使用人は務まらず、ましてや家宰などもってのほかです。どうか私などより斐醺様に適した人物をご登用下さいませ。最後に御顔を拝して申し上ぐべき所を、このような形で無礼極まりないのは分かってございますが、面と向かってしまいますと、とても言い出せないかと思いました。愚かな女とお笑い下さいませ。行く宛てはありませんが、目的地は定めず、南に向かおうと存じます。楽界の空から、斐醺様、斐色矜様の立身をお祈りしております。)
明らかに昱左の筆跡である。
斐醺は溜め息をつき、天を仰いだ。空から落ちる無数の雨滴を顔に受けた。
「分かった。帰っていいわ。」
「は。はい。その他、各所から國朶鎮への言付けもあるので、このまま…」
「いいわ、いいわ、行きなさい。」
斐醺は手を振って、伝令を追いやった。
「ああ。」
涙は出なかったが、白面は雨に濡れた。
(期待してたのに。優秀な女だった。そこまで避けるなんて秦州で余程のことがあったのね。)
配下に出奔された哀しさ。
(薬の手配は大丈夫かしら。)
それと現実的な課題。
國朶鎮の外、雨の黄土平原に佇む薄桃色の一騎。微動だにせず、一幅の絵の如く。
この日、夏が終わった。




