第壱話
「何ぃ、掟考が禾奔頭に攻め入ったぁ?」
圃勒春の素っ頓狂な声が、講堂に響いた。
因州と秦州の州境に位置する城塞都市、國朶鎮。
その城主府の講堂で、圃勒春は圃家の諸官数人と協議していたが、そこへ駆け込んできた吼了欽が行なった報告に対して、彼女が発したのがこの言葉だった。
「はい。本日早朝のことのようです。穎邑に放っていた諜者が聞きつけ、先ほど着きましてございます。」
時は、眞暦1806年9月2日夜。
講堂の窓からは、月明りが射している。
圃勒春は柳眉を吊り上げ、二重の大きな眼をくわっ、と見開いて吐き捨てた。
「性懲りもない。掟考の奴、今年に入って何度目だい?」
「二回目ですな。」
太凍が横から答えた。がっしりした身体の武官である。
「先月の和酬訪問を受け、美宜粽州王は捻州に使いを送った筈。その効果がこうも早く切れるとは、いよいよ捻・秦両州も荒れてきましたな。」
これは文官の唱来昔である。太凍と正反対で、栄養失調を疑うほどに痩せこけていた。
「ふうん。唱来昔、すると今回の侵攻は今までとは違うのかしら?」
「恐らく。奏同啄飯道が解体して彼の地の民衆は信仰の拠り所を失いましたが、あれから8年、秦・捻両州の王府に策無く、彼らの生活は苦しくなる一方、民心は荒れ放題です。掟考の前になす術ない穂泉煎を、秦州の民はついに見放すでしょう。」
「分かった。じゃ、因秦路の州境を厳重に封鎖して。難民や流賊の流入を食い止めるわよ。」
「はっ。」
圃勒春の下知に皆一斉に敬礼し、吼了欽もそれに倣った。
「まったく私が國朶鎮に戻った途端にこれなの?帰還したのは昨日なのよ。少しは休ませてほしいものだわ。」
吼了欽は圃勒春の前を辞し、彼女の憤懣の声を背中に聞きながら、
(斐醺様の仰る通りだ。)
と、想いを巡らした。
現在、秦州の州王は穂泉煎、北接する捻州の州王は必黄站。いずれも求心力が無く、州内を統率できているとは言い難い。
秦州は、奏同啄飯道という過激な新興宗教の総本山が州内にあった為、統治が難しかったとは言えるが、奏同は8年前の1798年、とっくに陥落している。いまだ奏同啄飯を名乗る残党が州内に跋扈しているのは、いかに穂泉煎の統治が至らぬかを示していよう。
一方の捻州は、秦州のように敵対勢力を内包していないからまだましだが、州内の城主を管轄しきれずにいた。捻州は遊牧民族の生活圏に近接し、全般に気荒な性質であったから、拠点を任されている武将は州王なんぞの言うことを聞かなかった。
捻州西南部に撮房という城市がある。
ここの城主が、掟考であった。
叩き上げの武官で、血の気の多い人物であり、こうした人物に有り勝ちでひどく縄張り意識が強かった。
撮房の南は、山一つ越えると捻州の城市、禾奔頭。山の入会権を巡り、以前から双方の間には小競り合いが絶えず、その都度掟考は禾奔頭に兵を出していた。今年に入ってからも一度出兵しており、今回が二度目である。こうした越境行為の度に、穂泉煎は必黄站に抗議し、必黄站は慌てて掟考に撤兵を命じるが、掟考はなんだかんだ現場の主張をしてしばし居座り、禾奔頭を荒らして帰る。そんなことを繰り返してきた。
恐らく今回もそうなるだろう。
斐醺が言った通り、統率の取れていない捻州が秦州を侵犯した。そして求心力の無い秦州はさらに荒れる。
― 國朶鎮の諸氏は。十分気をつけることよ。―
腹上に跨ぐ、しなやかで真っ白な裸体。鋭く真っ直ぐに通った鼻梁の下、桃色の唇から漏れる激しい吐息。
(斐醺様の仰る通りだ。)
講堂を出る吼了欽は、太凍や唱来昔と別れ、己れの袍が汗に濡れていることに気づく。
全速力で走り、掟考の侵攻という情報を伝えたのだ。汗をかくのは当然だが、それだけではなかろう。
若い吼了欽は今、一度思い起こしためくるめく情景に囚われている。いつか小講堂も過ぎ、院子を囲む長い回廊を歩いている。並ぶ砂岩の円柱、視線を上に移せば夜空に月が浮かび、星々が煌めいている。
しかし身体に熱をたぎらせる吼了欽には、そんな風景はまったく見えていまい。
彼が見上げているのは、夏の終わりに己が腹の上で踊らせた、斐醺の細い肢体なのである。
**********************************
大陸全体図
穣界十二州
因州
國朶鎮
啻万麓




