第八話
「ふう。奉忙は細かいというか、器量が小さいというか。」
斐醺は溜息をつく。
さっきまで一緒だった公子専属の外交官である奉忙の風貌を、小柄で痩せた貧相な身体、細く尖って神経質そうな顎、などを、思い浮かべている。
8月28日。
因州公子に命じられた秦州視察を終え、因・秦州境の城市であるここ國朶鎮に着いた。同行の奉忙は四十手前の外交官で州外の事情に千里眼の如く通じ、さすが秦州交相の甥、と斐醺は眼を見張ったが、結局は単なる助平親父で、誘いを躱すたびに「強引にでも昱左を連れてくるべきだった」と後悔したものである。
(國南になぞ来るつもりじゃなかったのに。)
吼了欽に見得を切ったのは十日程前の話だ。
斐醺の脳裏に、若い男の澄んだ濃茶の瞳が浮かび、元気な高い声が思い出された。その風貌は当然ながら、奉忙などよりも数段上。
一瞬で物思いを断ち切り、高い直線的な鼻梁をツン、とあげた。
斐醺の眼前に、國朶鎮の城壁が横たわっていた。
高さ12mに及ぶ壁が長大にめぐり、黄褐色の磚を無数に積んだ堅牢なる構造物。晩夏の昼光を浴びた黄金色の巨大な城塞都市、國朶鎮。
因州公子麾下の正規武官として、斐醺は唸る。少年のように薄い胸の前で、折れそうに細い腕を組み、雪の如く白い指で尖った顎をゆっくり撫でている。
「さすが州境の要衝。堅城だわ。」
秦州や捻州が荒れて、この城が襲われたとしても、普通に守れば賊如きには破られまい。東南隅に突出している出丸、朶巽楼は、豪壮な朱塗りの楼閣をその頂点に置くが、垂直の壁面には数多の矢狭間も設ける等、籠城戦を想定した機能を十分に備えている。
思わず斐醺は袍の袖に潜ませた小さな徽章を、柔らかく握る。細い指の腹に、八本の突起がチクチクと刺った。
口をキュッ、と結ぶ。
斐醺の白く光沢のある軍靴は、意を決したように力強く城の方に向けられた。
國朶鎮は城市の中も、黄褐色で統一され、家にも道にも乾いた砂が薄く降り積もっている。行き交う人に笑顔が多い。同じ因州の城市でも、啻万麓は紅白の色彩が刺激的だが、この國朶鎮は砂っぽい黄褐色が人間的な温かみを感じさせた。
街を歩く斐醺は、その細い一重の眼で、風景に、人に眼を配る。
斐醺の容姿は眼を惹く。
折れそうな程細い身体に薄桃の長袍を纏い、白く長い軍靴でカッカッと道に跫音を刻む彼女は、黄色の街にあまりに目立つ。雪の如く白い面長な顔、それを包む短髪は黒く艶があり、歩を進めるたびに躍る。國朶鎮の市民にとって、街行く斐醺は清爽な風の如く感じられただろう。いつか彼女の軍靴は、特に往来の多い哭嘴広場に踏み入った。
男も女も皆驚き、振り向く。広場の片隅に一人立つ、髪の長い瓜実顔の美人もまた斐醺に眼を奪われている。だがこの娘は他と違って、目に険があり、その美貌と対照的な暗い光が宿っていた。
この女は斐醺の視界の端に入り、気にはなったが、
「あ。」
すぐ目の前を屈強な兵員の隊列が行進していたから、すぐに意識の外に押し出された。
(龍眼圃韓以下、城兵の士気も高い。)
斐醺の武官たる観察眼が、國朶鎮の兵備にも鋭く向けられる。東西南北いずれかの城門を守衛する小隊と見られ、十人程であったが整然とし、各員の面構えも力強いものだった。平時の城兵でこの様子だから、有事の際にどれ程の精兵となるか、想像に難くない。
城主府で衛兵に来意を告げ、手際良く庁内を通されていき、上房に着くと、
「これは!よくお立ち寄り下さいましたっ。」
若い男の高い声に歓迎された。
「うふふ。来ないはずだったのにね。」
隙のない斐醺の顔貌が、ふいに緩む。
吼了欽だった。
十日前に見た、澄んだ濃茶の瞳。屈託のない、明るい笑顔。
「治安が悪いから、國南平原にはいらっしゃらない、と仰ってましたからね。」
「お隣を見てきたわ。治安どころか、いつ戦さになるかって状況よ。」
「秦州へご視察だったと。」
「そう。その帰りなのよ。お前の顔を― 、肩を見たくてね。寄ったのよ。」
「ありがとうございます!」
吼了欽は無邪気に喜んだ。
だが一方の斐醺は、一歩引いて自らを客観的に観察する不思議な感覚をおぼえている。斐醺よ、お前は吼了欽に対し心を許し過ぎなのではないか ― 。
斐醺の白面のうち、両耳だけが真っ赤に染まっていた。だが吼了欽は気付かずに高い声をぶつけてくる。
「奉忙様もご一緒だったんですよね。秦州は、やはり良く治っていないのですか?州王穂泉煎のもと、領国は統率されてませんか。」
「そうね。課題は多々あるわ。そしてそれは因州、特に秦州に接するこの國朶鎮にも少なからず影響する。」
斐醺の声は少し苛立っている。奉忙の名が出た為であるが、吼了欽はやはり気付いてない。彼はただウキウキして、国の大事を語ろうとする。
「なるほど。課題は、奏同啄飯道の残党でしょうか。それとも捻州との緊張が高まっているので」
「吼了欽。」
斐醺はぴしゃり、と遮った。一重の瞳が少し潤んでいる。
「今日は、圃戒仕様も圃勒春様もここにはいないんでしょ。貴方の家に呼びなさいよ。そこでたっぷり教えるわ。」
「えっ。いいんですか?」
今度は、吼了欽の顔が紅潮した。
「ぜひお越しください。ああ、片付けさせないといけない。」
「構わなくていいわ。ただ肩を診ないといけないからね。一室だけでいいから、清潔にきちんと清めておきなさい。」
言うまでもなく、斐醺の耳はいよいよ紅い。
「はいっ。」
國朶鎮城主府の上房に、男女の正規武官が顔を赤くして向かい合っている。
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夏の終わり、満月が紅い。
「うん、綺麗なもんじゃない。ほぼ完治だけど、最後に念の為こいつを塗りましょう。」
上半身裸の吼了欽に、斐醺は告げる。
吼了欽宅の一室で、斐醺は診察中だ。
傍らの寝台に置いた薬箱から「隼形透秘膏終膜」と銘された硝子の小瓶を取り出した。
吼了欽の左肩に開いた槍穴はすでに塞がり、小円形の桃色の皮膚が新たに張っている。斐醺は軍医だから当然その傷痕に注視しているが、逞しい吼了欽の上半身も気になって仕方がない。
さすが、先日の囮丘征伐でその名を轟かせた勇将。服を着ていると華奢に見えるが、上腕にも肩にも小山のような筋肉が盛り上がり、胸板も分厚く、燭燈の灯りで陰影がついたその身体は男性味に溢れている。
やはり自分はどうかしている、こうまであからさまに吼了欽の異性を意識してしまうなんて ―
「斐醺様のおかげです。処置が悪ければ、左手を切り落とすことになっていたかもしれません。」
咄嗟に、斐醺は吼了欽の太い左腕をぐっ、と掴んだ。
「忞番対の奴が最初にした処置は酷かったですからね?」
吼了欽は斐醺の反応に違和感をおぼえつつ、ある思いを抱いたようだった。
さすがに吼了欽も気付くか。
軍医たる斐醺はやはり、耳を赤くしながら思う。しかし、今生じた感情はあまりにも強烈で、隠しようがなかった。眼前の男の左手が失われたら?そう考えただけで切なくなり、自らの身体の一部がもぎ取られたかのような喪失感をおぼえたのである。
「この大事な身体を忞番対なんかに任せられますか。」
「斐醺様。」
吼了欽は左腕に斐醺を巻きつかせたまま、右腕の筋肉を波打たせて彼女の肩を抱いた。
斐醺の頭のどこかで想像していた通り、優しく温かい抱かれ心地であった。そしてその一方で予想以上に力強く、肩肉に食い込む指が一本一本、まるで刺さるように危うい甘美を感じた。
丸窓から、晩夏の夜風が涼しく吹き込み、晴れた夜空に紅い満月が浮いている。その前を紫の薄雲がたなびき、ゆっくり横切り行く。
斐醺は薄桃色の長袍を脱ぎ始め、吼了欽も手伝った。絹地のそれは軽やかで、すとん、と斐醺の足元に落ちた。もはや彼女の身には紗の襦袢だけが残り、形の良い小さな乳房や茱萸の実のような乳首が、透けてしまっていた。
吼了欽は昂ぶり、猛然と斐醺を寝台に押し倒した。
しかしそこは斐醺も武官である。細い身体は鞭のようにしなり、真っ白な腕と脚を、愛しい吼了欽に巻きつかせ、女の方からも熱く欲する。そして男の顔を両掌で挟み込み、口を強く吸った。
いつか二人は一糸纏わず、月夜の寝台に痴態を繰り広げた。
「國朶鎮の諸氏は。十分気をつけることよ。秦州は安泰では無いわ。」
斐醺は吼了欽に跨り、細く白い肢体を、壊れてしまいそうなくらい荒々しく動かしながらも、眼下の男に向かって忠告している。
「そうですか。城主代の圃勒春様に申し上げ。兵備を増強すべきですね。」
下になって横たわる吼了欽も、雄々しく突き上げながら、口では軍事の話をしている。
斐醺の汗が、眼下の吼了欽の盛り上がる胸筋の上に落ち、艶々しい短髪が大きく揺れる。吼了欽は優しく両手で斐醺の腰を捕まえているが、やはりその指先は尻肉に食い込んで、女はまた甘美な痛感をおぼえる。
斐醺は逞しい吼了欽の胸や肩を、うっとりと撫でさする。
「穂泉煎に。求心力なく。奏同も不穏なまま。山向こうの捻州も統率が取れてない。この國朶鎮はそんな地域にね。接しているのよ。」
「肝に。銘じておきます。」
時に激しく、時にゆっくりとうねり、二人の裸体は変幻自在、波長の高まる際にどちらもいい声で啼き、甘い吐息で部屋に熱気が満ちていく。
紅い月光は少しづつ床の上をうつろうが、若い二人の汗は飛沫を散らし続ける。
(紅い。満月が、紅い。)
男の腹上に揺れる斐醺の視界に、丸窓の夜空が入った。激しい動きの中でもはっきり見て取れる、鮮烈な真紅の色彩だった。
いつ果てるとも知れぬ長い舞踏。涼しげな夜風でも、閨房の熱気は全く冷ますことができずにいる。
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「来ない」
紅い満月は、四角い門の上に並ぶ七羽の鳥の彫像も照らしている。
「来ない。あの女か。」
燭燈も点けず、月明かりだけが射す暗い部屋に、髪の長い瓜実顔の女がぺったり、と座っている。
美女ではあるが、形相鬼女の如く、右目の下に散る三つの泣き黒子が別個の生き物のように蠢き、両の犬歯が、下唇を食い破って鮮血が滴っている。
雲は晴れ、月光を遮るものは無くなり、國朶鎮の街は平等に照らされていた。




