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危機と嬉々

「君はまだ被害者だ。今なら病院まで送るぞ」


傘さんは、首が真横に折れたままのクセルに向けて、淡々とそう告げた。

その口調はあまりにも平熱で、まるで路上駐車を注意するかのようだ。

しかし、


クセルは人間の構造を無視した姿のまま、ただニヤニヤと不気味な笑みを深めるだけだった。

彼女は細い指先を伸ばし、血に汚れたパトカーの後部座席を差す。

「あの子と一緒だといいですよ」      標的は、中にいる私だった。


あの電子の世界で私を「かいぼう」しようとした狂気は、現実世界でも何一つ変わっていない。

「あはっ……!」

クセルは真横に折れ曲がっていた首を、ボキボキと不快な音を立てて生々しく回しながら喋り続けた。

「さすが、天下のおいぬちゃん。ご主人様への忠誠心で頭を下げて、尻尾を振るのだけは一人前。……おまけに、鼻だけはよく利くねぇ――」

人間の構造を完全に無視した姿のまま、彼女は満面の笑みで私を指差してそう言い放った。

医学の常識を完全に破壊した姿のまま、こちらの命をどこまでも楽しそうに狙っている。

会話が完全に破綻している狂人を前に、傘さんは冷徹な瞳の奥に確かな苛立ちの火花を灯し、ただその場に立ち尽くしていた。

雨に濡れながら、その凄惨な悪魔へとゆっくり近づいていく。

「……頭でも打ったんだろう。ドブ鶏とは話にならないな」


ふむ傘さんは低く鋭い声でそう吐き捨てると、深く、重いため息をついた。

その瞬間だった。


傘さんの左目の白目の部分が、まるで黒いインクを流し込まれたかのように、一瞬で真っ黒に染まり上がっていく。

どんよりとした夕暮れの闇の中で、その片目だけが完全な「無」の黒空となってクセルを凝視する。

外でボソボソと喋り続けていた雨たちが、


その異変に怯えるように

『……ひっ……つめたい……こわい……』

と一段と声を震わせ、喋る雨のノイズが急に遠くなった気がした。

パトカーの後部座席で私が息を呑んだ、     まさにその刹那だった。

世界から、音が完全に消失した。次の瞬間、ボロボロという肉の裂ける生々しい音が路地裏に響き渡る。

何が起きたのか、私の脳の処理は完全に遅れていた。気づけば、

クセルが「あ」と小さく声を漏らしていた。

彼女の右肩から先が、唐突に消え失せている。

骨と肉の断面から、ドロリとした赤黒い血がアスファルトへ向けて勢いよく噴き出した。

腕が、根元から丸ごと引きちぎられていた。傘さんの口元に、私は目を疑うような光景を見た。傘さんは、冷徹な表情を一切崩さないままだった。

クセルの生々しい生腕をその口でがっしりと噛みちぎり、咥えていた。制服の襟元が、引きちぎられた腕から溢れる血でまたたく間に赤く染まっていく。

真っ黒に染まった左目と、人間の腕を口に咥えた警察官。首を回しながら笑っていた悪魔の腕が、一瞬で文字通り喰いちぎられたのだ。喋る雨たちが『……うわぁぁあ!……たべた……たべちゃった……』と、パニックを起こしたように一斉に叫び声を上げた。

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