防衛権
音が完全に消失した世界の中で、凄まじい肉の裂ける音が響いた。
私の脳の処理は完全に遅れていた。
血に汚れたパトカーの窓越しに凝視する視界の先、対峙する二人の光景に、私はただ息を呑むことしかできなかった。
気づけば、地獄から這い出てきた悪魔そのものであるクセルが「あ」と小さく声を漏らしていた。
彼女の右肩から先が、唐突に消え失せている。骨と肉の断面から、ドロリとした赤黒い血がアスファルトへ向けて勢いよく噴き出した。
腕が、根元から丸ごと引きちぎられていた。そして、対峙していた傘さんの口元に、私は目を疑うような光景を見た。
傘さんは、冷徹な表情を一切崩さないままだった。
クセルの生々しい生腕をその口でがっしりと噛みちぎり、冷酷に咥えていた。
制服の襟元が、引きちぎられた腕から溢れる血でまたたく間に赤く染まっていく。真っ黒に染まった左目と、
人間の腕を口に咥えた警察官。
首を回しながら笑っていた悪魔の腕が、一瞬で文字通り喰いちぎられたのだ。外でボソボソと喋り続けていた雨たちが、その常軌を逸した光景に
『……うわぁぁあ!……たべた……たべちゃった……』
と、パニックを起こしたように一斉に叫び声を上げた。
喋る雨の不気味なノイズが、急に遠くなった気がした。
しかし、そんな凄惨な状況にあっても、クセルは首を奇妙に回したまま、ただニヤニヤと笑っていた。
「あはっ……!」
次の瞬間、傘さんの驚愕の視線の先で、信じられない光景が起きる。
クセルの右肩の、骨と肉が剥き出しになっていた凄惨な断面から、
ドロロとした血が生き物のように逆流し始めたのだ。
千切れたはずの肉が、繊維の一本一本までが意思を持つように急速に絡み合い
膨れ上がり、
またたく間に元の滑らかな白い腕へと形を取り戻していく。
医学の常識を完全に破壊した姿のまま、こちらの命をどこまでも楽しそうに狙っている。
まるで時間を巻き戻したかのような異常な再生スピードだった。
傘さんは口からクセルの腕をボトリと地面へ落とし、真っ黒に染まった左目でその異形を凝視した。その瞳の奥に、確かな戦慄が走る。
「……、『pq A』か。……不死身、あるいは半不死身の類だな」驚きをはらんだ傘さんの低い声が、喋る雨のノイズを切り裂く。だが、クセルは再生したばかりの右手をひらひらと振って、心底おかしそうに鈴を転がすような声で笑った。「あはば! 違うんだよなー」首を傾げたまま、悪魔は歌うように言葉を紡ぐ。
「君からの攻撃だよ」




