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ツヨイチカラ  作者: 桃馬 穂
第10章 楽園の残酷

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第10.4量子パルス:砕かれた希望、最後の通信

 ≡ Quantum Pulse 10.4 / Shattered Hope, The Final Transmission


 空気の匂いが違った。湿った土の匂いでも、金属の匂いでもない。オゾンと、そして遥か昔に乾いた石の匂い。カナデはステルススーツのヘルメットの中で短く息を整えた。ここは世界線β、超古代。アトランティスの遺跡と呼ばれる場所。

 Φシフターがこじ開けた空間の歪みは、音もなく閉じた。周囲には、カナデが率いるアルカディア・コネクトの精鋭部隊「ガーディアン隊」が、すでに警戒態勢を完了している。彼らのステルススーツは周囲の風景を光学的に取り込み、その存在をほとんど完全に消し去っていた。

 目の前に広がるのは、人の常識を超えた光景だった。天を突くようにそびえ立つ、クリスタルのような材質でできた建造物の数々。その表面には、現代のどんな言語とも異なる、発光する幾何学模様がゆっくりと明滅している。建造物同士は光の橋で結ばれ、重力に逆らうように浮遊する庭園からは、見たこともない植物が青白い光を放っていた。

 だが、その美しさは、同時に圧倒的な拒絶の意志を放っていた。遺跡群の中心、ひときわ巨大なピラミッド型の建造物――時空バリア中枢――は、淡い虹色の光のドームに覆われている。あれが、共振周波数防壁レゾナンス・バリアか。

「第一次攻撃シーケンス、開始。目標、バリア東南セクター。高周波ランスで一点突破を試みる」。

 カナデの冷静な声が、部隊全員の聴覚インプラントに直接響く。二名のガーディアンが前へ出て、肩に担いだ長大なライフルを構えた。銃身が青白い光を帯び、空気を震わせる甲高いチャージ音が鳴り響く。

 放たれた二条の光は、音もなく空間を切り裂き、虹色のバリアに着弾した。だが、爆発は起きなかった。光の槍は、まるで水面に落ちた雫のように、バリアの表面に波紋を広げただけで、その奥に吸い込まれて消えた。

「……エネルギー反応、消失。対象の減衰率、九九・九パーセント以上」。

 別の隊員の報告が、冷たい事実だけを告げる。カナデは歯を食いしばった。こちらの最大火力が、蚊が刺したほどのダメージも与えられていない。

「第二次攻撃。目標、バリア上空。広域EMPグレネードを三発。電子制御を狙う」。

 三つの黒い円盤が放物線を描いて投げ込まれ、バリアの直前で閃光を放った。だが、その電磁パルスすらも、虹色の光の中に吸い込まれていく。バリアは揺らぎもしない。

 その時だった。遺跡のあちこちから、複数の影が音もなく浮上した。滑らかな流線形の装甲、関節のない四肢。重力制御自律防衛体〈ティターン〉。彼らは地面を歩くのではなく、「滑る」ように移動し、ガーディアン隊を包囲する陣形を組んでいく。その動きには、機械的な硬さが一切なかった。まるで、訓練された肉食獣の群れのようだ。

 一体のティターンが、その腕と思しき部位をこちらに向けた。先端が開き、重力が歪む気配がした。

「全隊員、退避! 攻撃が来る!」

 カナデが叫ぶと同時、不可視の衝撃波が空間を薙ぎ払った。ガーディアン隊員の一人が、まるで巨大な手に叩きつけられたかのように吹き飛ばされ、クリスタルの壁に激突して動かなくなった。ステルススーツの表面が火花を散らし、機能停止を示す赤いランプが点滅する。

「ダメだ……」カナデの唇から、絶望がこぼれた。「攻撃が通じない。こちらの動きは完全に読まれている。これは、罠だ」。

 ティターンの包囲網は、ゆっくりと、しかし着実に狭まってくる。彼らは攻撃を急がない。まるで、こちらの戦力を分析し、嬲り、絶望させることを楽しんでいるかのようだった。圧倒的な技術格差。それは、戦術や勇気で覆せるレベルのものではなかった。


「全隊員に告ぐ。作戦を中断。直ちに撤退する」。

 カナデの決断は、苦渋に満ちていたが、早かった。これ以上の戦闘は、無駄な犠牲を増やすだけだ。彼女は部隊の最後尾に位置し、負傷した隊員を庇いながら、Φシフターが指定した撤退ポイントへと後退を始めた。ティターンたちは、深追いはしてこなかった。ただ、その場に静止し、無機質な光学センサーで、敗走するガーディアン隊を見送っているだけだった。その侮辱的な静観が、カナデの心をさらに深く抉った。

 毒蝮研究所では、緊迫した空気がモニターの光に照らされていた。翔太は、カナデたちのヘルメットカメラから送られてくる断片的な映像と、悲鳴のような通信に、息を詰めていた。

「どうなってるんだ……! 全然歯が立たないじゃないか……!」

「技術レベルが違いすぎるんじゃ……!」ドクが唸る。

 その時、技術責任者である青山リクの席から、鋭い声が飛んだ。「カナデ! すぐに通信を切れ! 全量子リンクを遮断しろ!」

 リクの顔は青白く、その目には信じられないものを見たかのような驚愕が浮かんでいた。彼の目の前のコンソールには、無数のデータストリームが滝のように流れ、その中に一本だけ、明らかに異質な信号が逆流していた。

『リク? どうしたの!』カナデの声が、ノイズ混じりに返ってくる。

「説明は後だ! いいから早く!」リクは叫びながら、凄まじい速度でキーボードを叩いていた。「クソ……! 量子通信にエコーが乗っている……! こちらからの送信波に、完全に同期した反射波が……! こんなこと、理論上ありえない!」

 量子通信は、その原理上、第三者による傍受や介入が極めて困難なはずだった。だが、今起きている現象は、その常識を根底から覆していた。エデン・プロジェクトは、アルカディア・コネクトの通信をただ傍受するだけでなく、その通信経路そのものを「鏡」のように利用し、発信源へと遡っているのだ。

「逆探知……! しかも量子レベルでの……!」ドクがその可能性に気づき、絶句した。

『まずい……!』カナデの声が途切れる。『リンクを切断できな——』

 そこで通信は一方的に断ち切られた。だが、もう遅い。リクのモニター上で、逆流していた信号の終着点が、一つの座標として確定した。それは、“あちら側”の第八セクターにある、小さな避難所の一角。

「ミカ……!」

 翔太が、その名をつぶやいた。作戦を決める直前、カナデが紹介してくれた女性。カラフルな風船を約束した、あの小さな女の子の母親だ。自分に「がんばって」と手を振ってくれた、屈託のない笑顔が脳裏をよぎる。

「リク! なんとかできないのか!」

「もう……ダメだ……」リクの指が、キーボードの上で止まった。「座標が、確定した……。奴らは、もうミカさんの場所を……」。

 その言葉を証明するかのように、“あちら側”のミカの拠点から送られてきていた微弱な生命維持信号が、モニターの隅で、赤く点滅を始めた。それは、彼女の身に、今まさに何かが起ころうとしていることを示す、絶望的なカウントダウンだった。



 壁が鳴った。低い唸りがコンクリートの床を這い、棚の上の空き瓶がカタカタと震える。避難所の一室、ミカのささやかな拠点。ここは、いつも静かだった。だが、今の静けさは違う。嵐の前の、息を詰めたような静寂だ。

 ヘッドセットの奥で、リクの絶叫が弾けた。 『ミカさん、逃げろ! 座標が特定された! エデンがそっちへ向かっている! すぐにそこから離れろ!』

 声はノイズにまみれ、途切れがちだった。だが、意味はナイフのように鋭く突き刺さる。逆探知。最悪の想定が、現実になった。

 ミカは一瞬、ドアに目をやった。逃げる。その選択肢が頭をよぎり、すぐに消えた。彼女は逃げなかった。逃げるわけにはいかなかった。コンソールの画面には、まだ送信キューに残ったままのデータパッケージが点滅している。カナデたちが挑み、そして敗れたエデンの防衛網。その戦闘ログから、リクとAIがたった今弾き出した、反撃の鍵。

 ティターンの行動パターンに含まれる、0.3秒のエネルギー再充填の隙。レゾナンス・バリアが特定の周波数帯に対して、ごく僅かな減衰率の低下を示すデータ。これを送らなければ、次の戦いも同じ結果になる。次の犠牲者が出る。

 あの子が生きる未来が、また一歩遠のく。

 ミカはドアに背を向け、コンソールの前に深く座り直した。指が、キーボードの上を走り始める。

「希望は行動で証明される」。祖母の言葉が、今ほど重く響いたことはない。

 最初の衝撃は、音より先に振動で来た。床が垂直に突き上げられ、ミカの身体が椅子から浮き上がる。天井からコンクリートの粉塵が雪のように降り注ぎ、空気が一瞬で白く染まった。焦げた金属と、オゾンの匂い。

 咳き込みながら、彼女はキーを叩き続ける。データの最終暗号化プロセス。パスコードは娘の誕生日だ。指が震える。恐怖ではない。怒りだ。

『ミカさん! 聞こえるか!』

 リクの声が、悲鳴に変わる。ミカはヘッドセットを外し、床に置いた。もう、外の音に惑わされている時間はない。彼女は首から下げた古いロケットを、パーカーの上から強く握りしめた。冷たい金属の感触。中にいる娘の笑顔が、彼女の心を守る唯一の盾だった。

 二度目の爆発が、すぐ隣の区画で起きた。壁に亀裂が走り、配電盤から火花が散る。部屋の照明が明滅し、やがて完全に消えた。コンソールのモニターだけが、非常用バッテリーに切り替わり、彼女の顔を青白く照らし出す。

 送信キーを押す。画面にプログレスバーが現れた。遅い。あまりにも、遅い。

 データの転送が数パーセント進んだところで、三度目の衝撃が天井を砕いた。鉄骨の破片が、ミカのすぐ横の床に突き刺さる。飛び散ったコンクリート片が左肩を打ち、鋭い痛みが走った。

「……っ!」

 声にならない悲鳴を飲み込み、彼女は前のめりになる。左腕の感覚が鈍い。それでも、右手だけでマウスを握り、転送プロセスの優先度を最大に引き上げた。バーの進みが、ほんの少しだけ速くなる。

 視界がかすむ。コンソールの青い光が、滲んで揺れて見えた。痛みのせいか、粉塵のせいか。

 いや、違う。涙だ。

 悔しさではない。恐怖でもない。ただ、もう一度、あの子に会いたい。それだけだった。

 意識が、薄れていく。キーボードを叩いていた指が、止まる。マウスを握っていた手から、力が抜ける。プログレスバーは、まだ半分にも満たない。ダメだ、まだ。まだ、終われない。

 彼女は最後の力を振り絞り、ロケットを握りしめた手に意識を集中させた。

 その瞬間、脳裏に光が弾けた。

 公園だ。灰色の空の下、朱音あかねが赤い風船を手に、こちらへ走ってくる。

『ママ!』

 その笑顔が、声が、世界の全てだった。この笑顔を守るためなら、なんだってできる。ミカは、ゆっくりと目を開けた。モニターの光が、やけに眩しい。

 指が、動いた。一本、また一本と、キーボードに戻っていく。プログレスバーが、再びゆっくりと進み始める。六割、七割。

 もう痛みは感じなかった。身体の感覚が、遠い。ただ、モニターの数字と、脳裏の笑顔だけが、世界の全てだった。

 八割。九割。

 朱音。あの子の名前を、心で呼んだ。何度も、何度も。

 その時、部屋の壁が、光になった。音はなかった。ただ、全てが白に塗りつぶされていく。熱が、身体を包み込む。

 ロケットを握りしめたまま、彼女の身体は、ゆっくりと椅子から崩れ落ちた。

 コンソールの画面が、一瞬だけ緑色に変わり、「送信完了」の文字を映し出した。

 次の瞬間、モニターは火花を散らし、真っ暗な沈黙に飲まれた。


 灰色の空の下、公園の空気は湿っていた。古びた鉄製のジャングルジムが、錆の匂いをかすかに放っている。人影はまばらで、乾いた砂場を風が撫でる音だけが、やけに大きく聞こえた。

 小さな女の子が、祖母の隣でベンチに座っていた。その子の名は、朱音あかね 。その手には、一本の赤い風船が握られている。母親に買ってもらった、一番のお気に入りだった。風船は、重い空気に逆らうように、少女の手の中で必死に上を向いている。

「おばあちゃん、ママ、まだかな」

 舌足らずな声が、静かな公園にぽつりと落ちた。祖母は、孫の頭を優しく撫でる。「もうすぐ帰ってくるわよ。お仕事、がんばってるからね」。

 その時だった。どこからか吹いてきた突風が、二人の間を通り抜けた。公園の木々が一斉に葉を揺らし、砂が渦を巻いて舞い上がる。朱音は驚いて、思わず手を放してしまった。

 赤い風船が、ふわりと宙に浮いた。

 少女の手が、空を掴む。だが、指先は何も捉えられない。風船はゆっくりと、しかし確実に、空の高みへと昇っていく。灰色のキャンバスに描かれた、鮮やかな一点の赤。それは次第に小さくなり、やがて雲の向こうへと消えていった。

 朱音は、空を見上げたまま、動かなかった。祖母が「あらあら、飛んでいっちゃったわね。また今度、買ってもらいましょうね」と慰める。

 それでも、少女は空から目を離さない。

 やがて、その大きな瞳から、涙が一粒、ぽろりとこぼれ落ちた。風船がなくなったことが悲しいのではない。なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。ただ、胸の奥の、とても大切な何かが、遠い場所へ行ってしまったような、そんな途方もない喪失感が、小さな身体を満たしていた。

「どうしたの?」

 祖母の問いかけに、朱音は首を振るだけだった。しゃくりあげる声も出ない。ただ、静かに、静かに、涙だけが頬を伝い続けた。空っぽになった手の中には、まだ風船の紐の感触が、かすかに残っているような気がした。


 毒蝮研究所のモニターの隅で、赤く点滅していた生命維持信号が、ふっと消えた。まるで、燃え尽きた蝋燭のように。その瞬間、全ての音が止まった気がした。

 ミカからの最後のデータパッケージが、研究所のサーバーに届いたのは、それとほぼ同時だった。「送信完了」の文字が、リクのコンソールに一瞬だけ緑色に灯る。

 次の瞬間、彼の座るコンソール全体が、けたたましい警告音と共に火花を散らした。

「リク!」

 カナデの絶叫が、ホログラム通信の向こうから響く。量子通信網を逆流してきたエデンの攻撃の余波バックラッシュが、受信者であるリクのシステムを直撃したのだ。

 リクは短い悲鳴を上げ、椅子ごと後ろへ吹き飛ばされた。彼の身体から、青白い電光が蛇のように走り、壁際の計器を破壊して消える。彼は床に倒れ込み、動かなくなった。スーツの一部が黒く焦げ、そこから細い煙が立ち上っている。

「リクくん!」

 結衣が悲鳴を上げて駆け寄る。ドクも血相を変えて、リクの脈拍を確かめた。「意識がない! だが、息はある! 医療キットじゃ!」

 研究室は、一瞬にして地獄になった。ミカの死。リクの戦線離脱。そして、圧倒的な敗北。希望は、粉々に砕かれた。

 翔太は、その場で立ち尽くしていた。何もできなかった。何も、言えなかった。彼の脳裏で、自分の声が繰り返し響いていた。

『やろう』

 作戦を決める直前、自分が放った、あの決意の言葉。あの言葉が、この惨状を引き起こした。自分の無謀な決断が、“あちら側”で戦う仲間を、死に追いやったのだ。

 カラフルな風船を約束した、あの小さな女の子の顔が浮かぶ。自分に「がんばって」と手を振ってくれた、朱音の屈託のない笑顔。あの笑顔の母親を、自分が殺した。

「……う……ぁ……」

 喉から、意味にならない声が漏れた。罪悪感が、熱い鉄のように胸を焼く。翔太は、震える手で壁に寄りかかった。コンクリートの冷たさが、彼の絶望を際立たせるだけだった。

 約束は、もう果たせない。風船は、もう渡せない。

 翔太は、壁に額を押し付けた。悔しさと、無力感と、そして自分自身への激しい怒りが、内側から彼を食い破ろうとしていた。

『ママのおしごと、てつだってくれるの?』

 少女の声が、耳の奥でこだまする。翔太は、目の奥が熱くなるのを感じた。だが、涙は出なかった。悲しみを通り越した感情が、彼の身体を支配していた。

 彼は、ゆっくりと壁から顔を上げた。その目に、もう涙はなかった。そこにあったのは、冷たく、硬く、そして底なしに深い、静かな怒りの光だった。

 エデン・プロジェクト。彼らが、ミカを殺した。彼らが、あの親子のささやかな未来を奪った。

 翔太は、固く、固く拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。痛みは感じなかった。

 その痛みよりもずっと深い場所で、何かが生まれた。それは、復讐心と呼ぶにはあまりにも静かで、正義と呼ぶにはあまりにも個人的な、決して消えることのない、冷たい炎だった。


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