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ツヨイチカラ  作者: 桃馬 穂
第10章 楽園の残酷

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第10.5量子パルス:非情な絶対条件

 ≡ Quantum Pulse 10.5 / The Inhumane Imperative


 毒蝮研究所の空気は、死んでいた。オイルと埃と、そして焼けた電子部品の匂い。その全てが混じり合い、まるで弔いの線香のように、部屋の隅々にまで満ちていた。

 大型モニターは何も映していない。ただ、その黒いガラス面に、絶望に打ちひしがれた仲間たちの姿が、幽霊のようにぼんやりと映り込んでいるだけだった。

 壁際の医療ポッドから漏れる、生命維持装置のかすかな動作音だけが、重い静寂に針を刺していた。ポッドの中では、リクが眠っていた。顔色は紙のように白く、スーツに残る焦げ跡が痛々しい。結衣は、そのガラスの向こうの弟の姿を、ただ黙って見つめていた。その背中はひどく小さく見えた。

 郷田は壁にもたれかかり、床の一点を見つめていた。その指の関節は、壁を殴るのを必死にこらえているかのように、白くなっていた。ドク博士は、いつもの狂気じみた情熱をどこかへ置き忘れたように、パイプ椅子に深く腰掛け、ただ顔を覆っていた。

 そして翔太は、冷たいコンクリートの床に座り込み、ただ自分の拳を見つめていた。爪が掌に食い込み、乾いた血がこびりついている。痛みは感じなかった。痛みよりもずっと深い場所が、麻痺していた。

 ミカは死んだ。リクは倒れた。作戦は、完膚なきまでの敗北に終わった。その事実だけが、部屋の空気を鉛のように重くしていた。

「……俺のせいだ」

 翔太のかすれた声が、床に吸い込まれて消えた。作戦を決める直前、自分が放った、あの決意の言葉。あの言葉が、この惨状を引き起こした。カラフルな風船を約束した、あの小さな女の子の顔が浮かぶ。自分に「がんばって」と手を振ってくれた、朱音の屈託のない笑顔。あの笑顔の母親を、自分が殺した。

 罪悪感が、熱い鉄のように胸を焼いた。


 ライラだけが、立っていた。窓の外の、何も見えない夜の闇を、表情のない顔で眺めていた。彼女の故郷の仲間が、死んだのだ。

 彼女の脳裏では、あの夜、端末で知らされた使命が、冷たい響きで反響していた。「わたしたちの世界の存続には、天野翔タの血の中にある“特殊な遺伝子配列”の継続が絶対条件である」。そして、翔太と結衣の関係が揺らぐと、写真の中の子孫たちが消えかけるという、残酷な法則。

 その予感が、今、最悪の形で確定しようとしていた。

 研究室の中央にあるホログラム投射機が、静かに起動した。光の粒子が収束し、アルカディア・コネクトのリーダー、カナデの姿が浮かび上がる。彼女の表情は硬く、その瞳の奥には、部下を失った深い悲しみと、それでも前を向かなければならないリーダーとしての苦悩が、色濃く浮かんでいた。

『……皆さん、聞こえますか』

 カナデの声は、震えを押し殺していた。彼女はホログラムの横に、いくつかのデータを表示する。それは、ミカが命と引き換えに送り届けた、エデンの防衛網に関する情報だった。

『ミカが残した最後の情報と、リクが倒れる直前まで行っていた量子コンピュータの最終シミュレーション……その結果が出ました』

 カナデは一度言葉を切り、視線をライラにだけ向けた。その目には、伝えることへの躊躇と、伝えなければならないという悲壮な覚悟が浮かんでいた。

『ライラ。あなたにだけ、伝えなければならない絶対条件があります』


 カナデは、手元のコンソールを操作した。ホログラムに、一つの分子構造モデルが浮かび上がる。それは、確保したレアアースから抽出されたナノイオン錯体と、翔太の血液から得られた特殊な酵素が結合した、ワクチンのコア部分だった。

『臨界小瓶の分析で、これが「配合式の片割れ」であることは分かっていました。ですが、リクが最後に突き止めたのは、この構造を完全に安定させ、数千の変異株に対応する万能ワクチンへと昇華させるための……最後の鍵です』

 カナデは、もう一つのデータを表示した。それは、結衣の遺伝子情報から抽出された、特殊なHLAハプロタイプの配列だった。

『翔太くんの血清と、結衣さんの血筋。この二つのハイブリッド遺伝子セットを持つ子孫でなければ、ワクチンの共鳴条件は成立しない。これが、量子コンピュータが弾き出した、唯一の解です』。

 その言葉は、静かだったが、研究室の全てを凍りつかせた。

『天野翔太と、青山結衣が結婚し、特定の子孫を残すこと。絶対的な条件なのです』。


 その瞬間、ライラの中で何かが砕け散る音がした。

 あの夜、堤防で芽生えた予感。写真が薄れていく恐怖。それらが、覆すことのできない「科学的必然性」として確定した。

 自分の恋心は、完全に断ち切られた。愛する人を、自らの手で、親友である結衣と結びつけなければならない。それが、仲間たちの死に報いる唯一の道なのだと。

 涙は、出なかった。悲しんでいる場合ではなかった。

 仲間を失った罪悪感と、この逃げ場のない使命。二つの絶望が、彼女の中で混じり合い、一つの硬い決意へと変わっていく。

 この「翔太と結衣が結びつく未来」を、何があっても守り抜く。そのためならば、どんな禁じ手を使ってでも。

 ライラは、ホログラムの中のカナデを、まっすぐに見つめ返した。その目には、もう悲しみも、恋に悩む少女の甘さもなかった。そこにあったのは、自らの全てを犠牲にしてでも目的を果たすという、冷たい炎だけだった。

『……分かった』

 ライラの声は、静かだったが、部屋の誰の耳にも、はっきりと届いた。

『カナデ。ウルトラCを、やろう』。

 その言葉が、絶望の底に沈んでいた仲間たちの顔を、一斉に上げさせた。それは、新たな戦いの始まりを告げる、静かな号砲だった。




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