第8.8.2 量子パルス:甲板の二合
≡ Quantum Pulse 8.8.2 / Second Bout on Deck
最上段での停止を確認し、〈サギリ〉は〈ミズハ〉の右舷へ戻った。固定点を二つ取り、間隔は手の届く幅。濡れた甲板は塩で白い筋が残り、手すりは冷たく、靴底の感触が浅い。
「翔太、戻ってこい。右舷、二歩分の幅で受け入れ」影山の声は抑えているが、端に鋼がある。
「了解。合図で渡る」
ライラ「三、二、一——今!」
翔太は手すりを掴んでひと息で渡った。体が甲板に乗ると同時に、胸の熱が遅れて追いつく。郷田が固定を増し、張力計の針を中央に貼り付ける。カナデは外の数値を短く束ね続ける。「海面の小型艇は距離を保つ。接近の意志は読み切れず」
倒れたUnit07はスロープ下で砂に半ば沈んでいた。胸部の板は起き、内部の光が一つ消えている。終わった——そう思った瞬間だ。
「待て、動きが戻る!」カナデの声が鋭く跳ねた。「微小電源、再投入。自己保存のルーチンが起動……!」
「嘘だろ……!」郷田が手すりを握り直す。
黒い躯体が身を縮め、片脚だけで縁を探す。次の瞬間、膝の関節が水を蹴り、胸の板を庇うようにして堤防の縁に爪を掛けた。濡れた石の上で姿勢を低く整え、そのまま甲板側へ方向を取る。
「来る!右舷に上がる!」カナデ。
「迎え撃つな。甲板に誘え。横で間合いを作り、真正面の瞬間を奪う」影山が切り替える。「翔太、ボードだ!」
翔太はブリッジ脇のケースを開け、ドクが託したボードを引き出した。カーボンのデッキは乾いた黒。粘るウィール、リモートブレーキ、濡れ面でも沈むグリップ。
「借りる。戻ったら、笑って返す」
「返さなくていい。壊してもいい。生きて帰ってこい!」影山が短く返す。あの夜の言葉が背中に乗る。
「ライラ、拍を二段落とせ。影を伸ばす」
「了解。三、二、一……下げた」息の高さが一拍低くそろう。
翔太はボードを甲板に置き、片足をかけて体重を預けた。横へ出る。濡れた平面に足裏の重さが移り、車輪が水を切って進む。手すりと貨物箱の狭い廊間を選び、甲板の中央を避ける。
躯体が手すりを越えた。胸を庇い、脚で追うタイプの動き。正面から速い。横の角度では遅い。
「こっちだ!来いよ!」翔太は声を前へ投げる。影山の言ったとおり、逃げ腰に見せない。躯体の顔面がわずかに傾き、重心がこちらへ寄った。
「カナデ、甲板上の障害物をマップで送れ。転倒誘発の線を引く」影山。
「送信。ドレンの格子、ラッシングレール、ウインチ基部、手すりの継ぎ……弱いのはここ」カナデは点を示す。「風下の角でブレーキをかければ、相手の脚は踏み変えにくい」
「郷田、右舷後ろの格子のピンを抜け。踏めば沈む程度に。——転ばせるな。躓かせるんだ」
「了解!」郷田は工具を抜き、格子の固定を一段だけ甘くした。
翔太はボードで甲板の端を回し込む。体は低い。膝を抜き、肩で風を受けて角を一つ減らす。
「はぁ、はぁ……来いって」喉が焼ける。背中の汗はもう冷たくない。体の輪郭がはっきりする。
躯体が格子へ向けて二歩詰めた。その足取りに迷いはない。胸の板は守ったまま、脚だけで迫る。
「今だ、翔太!ブレーキ!」影山。
翔太はリモートに指を触れ、速度を落として格子の手前で止めた。自分の足元は安全なレール側。躯体の次の一歩は格子へ乗る角度だ。沈む。脚の荷重が片側へ流れ、膝の軸が外へ逃げ、胸の板の守りが一瞬だけ薄くなった。
「正面に戻せ!」影山が最後の線を引く。翔太はボードを一気に蹴り出し、半円で回って躯体の胸の前に入った。
「お前の相手は俺だ!」
距離は一歩。翔太は体をひねって横のエッジで躱し、ボードの低い重心でスライドしながら胸の板の浮いた端へ体重を預けた。手は空ではない。さっきのスパナがまだ腰にある。
「ライラ!今だ!」
「三、二、一——今!」
一撃。金属の厚みが掌に返る。二撃目を斜めに入れ、板をさらに起こす。躯体の内部で警告の信号が短く鳴る。胸の奥のライトが一つずつ落ちる。
「カナデ!」
「胸部の出力、低下!脚の角速度、負へ!」
躯体が起き上がりを試みる。だが胸で支えが効かない。翔太はボードの鼻先で胸を押し、肘で板の縁をさらに抑え込む。真正面の一合が、ここで決まる。
「落ちろ!」
落ちた。躯体は胸から倒れ、甲板に重い音だけ残す。翔太の耳に甲板の反響が戻り、呼吸の高さが一段落ちる。
「機能停止、再判定。……停止を維持」カナデ。
「張力、二・五で固定。対象は動かない」郷田。
「よし、撤収ラインに移る」影山は声を整えた。「翔太、ボードを——」
声が切れた。別の声が甲板の上から落ちてくる。
「止めておけ。……十分だ」
黒い雨具の人物が右舷の手すりの外にいた。小型艇が静かに横付けされている。顔はフードの影で読めない。手には小さな端末。
「誰だ!」郷田が身構える。
「記録は取れた。……介入はしない」声は荒くないが、命令の形をしている。
影山が一歩前に出る。「ここはうちの甲板だ。名乗れ」
人物は短く言った。「クロノス、そう呼ばれている。」
ライラは唇だけ動かした。「……誰?」
影山は答えない。目だけで相手の手元を計り、舳先と小型艇の間合いを測る。人物は端末を上げ、倒れた躯体に短い信号を送った。胸部の残留灯がすべて落ちる。本当の停止だ。
「なぜ止めた」翔太が問う。息は荒いが、声は前に出る。
「計測の邪魔になる。……お前たちの勝ち筋も、ここで崩れる」人物はそれだけを置き、手すりから甲板へ軽く上がった。靴底は濡れているのに滑らない。重心が低い歩き方だ。
「記録を見れば、わかる」
影山は視線だけで周囲に命じる。「誰も動くな」
人物はフードをわずかに外し、翔太を見た。「名前は知っている。……話は続きでしよう」
「続き?」翔太。
「ここで語る話じゃない」人物は甲板の端へ戻る。「選ぶのは君たちだ」
小型艇がわずかに離れ、風下へ引かれた。人物は振り向かない。雨具の裾が短く揺れる。
「影山」翔太が言う。
「ああ、見た。——撤収だ」影山は決める。
ライラが拍を揃える。「三、二、一」
カナデ「後進零点一、張力二・五、姿勢安定」
郷田「ライン保持」
結衣「通信、良好。……みんな、無事で」
リク「記録、連続で保存」
翔太はボードを抱え、デッキに置いた。デッキの炭の黒は濡れても沈まず、ウィールはまだ温かい。
「返す時、笑って返す」
誰も否定しない。甲板の反響がゆっくり薄れ、夜の唸りが一定に戻る。倒れた名と、名を名乗った人物だけが、濃いまま胸に残った。




