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ツヨイチカラ  作者: 桃馬 穂
第8章 拍動を合わせて

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第8.8 量子パルス:正面の一合

 ≡ Quantum Pulse 8.8 / The Head-On Bout


 二十一時。スロープの上端。最上段のコンクリートは濡れ、足音と声が大きく返る。〈サギリ〉の艫には補助ウインチ、スリングライン、先端に返しの付いたフック。甲板は潮で滑りやすい。手すりは塩を吹き、指の腹がざらつく。

「——正面で受ける!」翔太ははっきり言った。喉は乾いているが、声は前に出る。影山が頷く。「いい。引きつけてからだ。逃げ腰に見せるな」ライラは短く息を数え、全員の拍を揃える。「三拍刻んで、揺れを殺す。行ける」カナデが端末を握り直す。「後進制御、私が持つ。補助ウインチは郷田さん、張力値は私に合わせて」

 黒い影は水際で半身を上げ、脚の角度を一段深くした。翔太は舳先に体を寄せ、スロープの線に船を合わせる。視界の縁が狭まり、中心だけが濃い。相手の膝に当たる関節の逃げ方向と、足首の許容角を頭の中で重ねる。

「おい、こっちだ。来いよ!」声を張る。返事はない。だが黒い仮面のような顔面がわずかにこちらへ傾き、距離が詰まる。反響が胸板に跳ね返る。スロープの上段に水が上がり、冷たい滴が頬に当たった。

「距離、八六。速度は一定、進路はこちら」カナデは抑えた声。

「補助ウインチ、待機」影山。

「了解。巻き取り、オンでホールド」郷田の返事は大きい。工具箱の金属音が短く響く。

 翔太はフックを手に取る。柄は肘から先と同じ長さ、返しは浅い。スリングラインの端が艫のウインチにつながっている。真正面から脚基部を抜くなら、相手の重心が前に寄る瞬間を一つ待つ必要がある。ライラがタイミングを切る。「三、二、一、——今!」

 翔太は前へ一歩。濡れた縁で靴底が僅かに滑る。肩で距離を詰め、フックを低く通す。狙いは脚の付け根の裏。金属と樹脂の継ぎ目の隙間に返しを押し込み、手首を返す。腕に硬い抵抗が乗る。「入った!」声が出た。

「スリング通った。郷田さん、テンション上げ」カナデが即座に続ける。「後進、零点四で出す。張力ターゲットは三・二キロニュートン!」

「了解、巻き上げ三・二、刻む!」郷田の足が踏ん張り、ワイヤの微振動が腕に登る。ウインチモータの音色が低く太くなる。艫側の柱がわずかに軋み、甲板のボルトが短く鳴いた。ゴムの焦げた匂いが薄く上がる。

「後進、零点四、維持。張力、二・六……二・八……三・一……」カナデの声は落ち着いているが、息継ぎは早い。「足関節の角度、二十五度を超えた。許容域に接近」

「もう半拍、持て!」影山の声量が上がる。「翔太、前へ引く動きは殺せ。横に逃がすな!」

 相手の足元に水が絡み、脚の軸がわずかにしなる。関節部から金属が擦れる長い音。面で受けるべき力が線に乗り、角度がさらに増す。翔太はフックと手首の角度を維持し、上体で反力を逃す。「カナデ、三・二」

「入った、三・二。——許容角を超えた!」その言葉の直後、脚の接地が崩れ、黒い躯体が前へ倒れ込む。水が胸に冷たく当たる。反響音が一段跳ね上がり、関節が短く悲鳴のようなきしみを出した。

「倒れる!下がれ!」影山の叫びに、翔太は半歩だけ引く。倒れた躯体の胸部に、斜めの保護板が見えた。工具は艫側。翔太は振り返らず叫ぶ。「工具!」

「スパナ!」郷田が片手で投げ、金属の重みが掌に収まる。濡れた柄が冷たい。滑らせないよう指を握り直す。

「ライラ、拍、今だ!」

「三、二、一——今!」声が肩の筋肉に電気のように入る。翔太は倒れた躯体の胸側へ踏み込み、保護板の留め具の上に狙いを合わせ、一撃で叩いた。金属の厚みを通して手のひらが痺れ、肘から肩へ震えが駆け上がる。留め具の沈む感触。さらに半歩、体重を載せてもう一撃。板の端がわずかに浮き、内部のケーブルが一瞬だけのぞいた。

「警告音、発生。自己診断の短い信号、反応は弱い!」カナデが告げる。「後進、零点二に落とす。張力、三・零で維持」

「よし、姿勢は保て」影山は低く言い切る。「翔太、もう一発で終わらせろ!」

 息が荒い。胸の内側で熱が広がる。翔太は歯を食いしばり、狙いを胸部の中心線からわずかに外した箇所へ移し、斜めに叩き込む。板がさらに起き、内側で光が一つだけ消えた。躯体の震えが弱まる。脚の関節が戻らず、体重が自重で畳まれる。

「動き、低下。関節の角速度、零点以下へ」カナデ。「——機能停止、判定」その声に重なるように、護岸の反響がすぅと引いた。あれほど硬かった唸りが、ただの海の呼吸に戻る。

「はぁ……はぁ……!」郷田がウインチ柱にもたれ、息を吐いた。手の甲には薄い擦り傷。張力計は中央で安定し、ワイヤは静かな線だけを残す。甲板に塩の匂い、モータからは焼けたゴムの匂いが薄く漂う。

「外部回線、短い発話。『維持。非介入』」ライラが耳を押さえた。「……誰かが、記録だけ取ってる」 「小型艇の動き、変化。接近の意志はあるが、距離は縮まらず。——躊躇している」カナデが外を見た。「視線はこちらに固定。合流は保留の挙動」

 影山は全体をひと撫でし、決着の線を確認する。「よし。後進は零点一で保持、張力二・五へ落として固定。——翔太、胸板の再固定は不要。触るな。撤収に移る」

「了解……!まだ手、震えてるけど、動ける!」翔太は短く笑い、スパナを落とさないようグリップを握り直す。掌は痺れたまま、痺れがかえって輪郭をはっきりさせた。

「学園、安定。通信良好。……翔太くん、みんな、無事?」結衣の声は慎重だが、語尾に光があった。

「研究、記録完了。温度・加速度ログは連続、欠損なし」リク。

「前線、作業完了。対象、停止を維持」ライラは短くまとめ、拍を一つ落とす。「……全員、よくやった」

 倒れた躯体は水と砂に半分埋まり、胸部の保護板は斜めに浮いたまま。光学の目は暗く、動作の兆しはない。スロープの最上段で、反響音だけがゆっくり薄れていく。

 翔太は〈サギリ〉の舷に手を掛け、海の匂いを深く吸い込んだ。さっきまで喉に張り付いていた金属の味は、潮で薄れた。胸の熱は残っている。逃げなかったせいだ。

「影山。——持ち帰る」

「ああ。持ち帰る」影山の声は低く、確かだった。

 カナデが最後の報告を置く。「後進零点一、張力二・五、船体姿勢は安定。小型艇は依然として距離を保つ。こちらの撤収に合わせて動向を判断」

  郷田がウインチを一段緩める。「ライン、良好。スリング固定、保持」金属のきしみはもう出ない。代わりに、甲板を流れる水の細い音。潮とゴムの匂いが混じる。

「翔太、手を見せろ」ライラが近づき、手首の脈を指先で触れた。「……速いけど、落ち着いてる」

「うん。行ける」翔太は頷く。視界の縁は広がり、中心の像はそのまま。倒れた相手の名が、落ち着いた重さで胸に残った。

「撤収、開始」影山が最後に告げた。声は強くも弱くもない。決まった線をなぞる音だった。最上段の水が引き、夜の唸りがふたたび一定になった。


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