第5.2量子パルス:写真の中の二人が消える
≡ Quantum Pulse 5.2 / Vanishing of Two in the Photo
夕暮れの研究所。搬入口のシャッターは半分だけ上がり、外の潮風が薄く流れ込んでいた。金具がちりと鳴り、壁のファンが一定の音で回る。
作図台の端にはドクから渡されたカーボンのボード。ウィールが砂を噛んでころりと止まり、床のケーブルが細く揺れた。
「ねえ、それ、そこに置かないで。」
結衣がボードを見て眉を寄せた。リュックの肩紐を引き直し、視線は正面から翔太へ。
「踏んだら割れる。ドクに返す約束、忘れたの?」
「返すけど、今夜も使う。ケースに入れるの、あとでいいだろ。」
「“あとで”。またそれ。」
結衣の声が冷たくなる。ボードを持ち上げ、ケースに押し込み、ファスナーを強めに引いた。金属の歯がしゃりと噛み合う。
「幼馴染として言うけど、もう少しきちんとできない? 今日の観測ログ、私がまとめ直したんだよ。」
「まとめ直してくれて助かった。けど、俺だって――――」
「助かったって言い方、ずるい。」
空気がぴんと張った。遠くでトラックのブレーキが低く響く。ライラは作業台の影で二人を見ていた。
割って入れば火が走る温度だ。胸ポケットの中で、昨夜の堤防で見せた写真が指先に触れる。引き出しかけて——止めた。
けれど、白い縁が朝より薄いのが一瞬で分かった。中央の三人——カナデとリクと自分——の輪郭に細い霧がかかる。嫌な汗が背筋を落ちる。
翔太が言い返そうとした瞬間、結衣は踵を返した。踊り場の段差で足が滑りかけ、体が前へ傾く。
「危ない。」
影山が反射で背中を支える。金具がかちゃんと鳴り、二人の息が重なった。結衣は一瞬固まり、手すりをつかんで体勢を戻す。
「…………平気。大丈夫。…………ありがと。」
言葉はそっけないのに、影山の手を払いもしない。その支えに一瞬だけ体重を預けてしまった自分に、結衣は気づいて小さく目を伏せた。翔太の胸の奥が、刺すように痛む。
ライラは写真をわずかに傾けて確かめる。白縁がもう一段階、削げた。カナデの髪の光が薄く、リクの頬の陰影が背景の鉄骨に負けて透ける。
端末で家族回線に短く打つ。〈応答確認〉。送信音だけ。
既読はつかない。
「翔太。」
ライラは近づき、低い調子で必要なことだけ置いた。
「仲直りして。今すぐ。これからやる“迎撃線の試運転”も、その先の回収も、あなたと結衣が噛み合っていないと成功しない。短く、誠実に。」
翔太は目を伏せ、顎に力を入れた。今さら、という言い訳が喉まで上がっては消える。負けたくない意地と、時間がない現実が胸の中でぶつかって、視線が泳ぐ。
何も言わず、工具棚の影に歩いていき、ボードのケースを肩にかけた。ライラの方は見ない。すぐには飲み込めない。
けれど、足は止まらなかった。ライラは彼を追わず、階段を上がった結衣のほうへ向かった。影山は少し距離を取り、堤防方向を見張る位置にいる。
「結衣。」
ライラは距離を保ち、言うべきことを短く並べる。
「三点の同期は、結衣の数字がいちばん信頼できる。私が見落とす部分、結衣は拾える。お願い、戻って。」
結衣はノートの端を指でなぞり、視線は海へ流した。
「…………全然、気にしてないし。別に、私には関係ないから。」
「――――それと、もう一つ。」
ライラは言い方を選び直して、はっきり続けた。
「翔太を支えて。彼は前へ出るとき、後ろが見えなくなる。あなたが横で止めて、整えて。あなたがいないと、彼は半分しか力を出せない。」
結衣の指から力が少し抜け、ノートの角をたたく癖が止まる。息を吸って吐くまで、三拍ほどかかった。
「…………忙しいから。戻る。」
言葉は素っ気ないが、足は研究所の方へ向いた。影山が手すりを押さえ、通り道を作る。結衣は礼は言わず、しかし足を止めない。
ライラはそれで十分だと判断した。外気にあたろうと翔太がシャッターから出ると、路地の自販機の明かりに、フードを被った細い影が立っていた。郷田の妹、沙希だ。
紙袋を抱え、缶の取り口を見つめている。
「…………沙希?」
「うん。薬局の帰り。」
沙希はマスクをずらし、目だけで笑おうとした。うまくいかず、すぐ目を伏せる。
「この前は、ありがと。」
「いや…………俺こそ、いろいろごめん。」
言い終わる前に、沙希がぽつりと続けた。
「結衣さん、最近、神社で祈ってたよ。学校の近くの。紙に書いて、結んでた。“天野くんが無事に帰ってきますように”って。…………兄ちゃん、そういうの私に言うなってうるさいけど、今は言ったほうがいい気がして。」
翔太は言葉を失った。胸の内側で、硬い何かがゆっくり崩れる。悔しさと情けなさと、ありがたさが一度に来て、少し笑いそうになって、笑えなかった。
「…………ありがとな、沙希。」
「うん。」
沙希は短く頷き、紙袋を抱えて路地の角に消えた。翔太は研究所へ戻る。作業灯の下、結衣がケーブルの結束をやり直している。
影山は時計を見て、窓の方へ視線を流した。ライラは離れた位置で工具を整理している。三人の間に、言葉の置き場所が空いている。
「結衣。」
翔太は二人きりの距離まで近づいて、頭を下げた。
「さっきは悪かった。片付けもログも、俺がやる。…………頼む。一緒にやってくれ。」
結衣は少しだけ息を吸い、ためらいを誤魔化すみたいにケーブルの端を整えた。
「私も言い過ぎた。短くやる。長く引きずらない。」
それだけ言って、結衣は手際よく作業を分担し、タイムテーブルの欄にチェックを入れた。翔太は邪魔をしないように位置を変え、言われる前に次の作業に手を伸ばす。影山は視線を外に投げたまま、わずかに頷いた気配だけ残した。
ライラは胸ポケットから、誰にも見えない角度で写真を取り出す。白縁がわずかに濃くなり、リクの輪郭が戻り、カナデの目の黒が深くなった。戻っていく。
確かに。端末の家族回線に短く打つ。〈戻ってきて〉。
数秒後、既読の点が静かに灯る。音はないのに、“いる”気配が返ってきた。安堵が胸に広がると同時に、別の痛みが鋭く走る。
二人が近づけば、写真は戻る。それは任務の線が正しいという証拠であり、自分の願いが一歩遠のく合図でもあった。感情を押し込み、位置を選び直す。
今は、日陰に立って支えると決めたのだから。
「段取り。」ライラはテンポを戻す。「迎撃線の試運転、予定どおり。私は前線艇のコンソール。翔太はペアリングの起動。結衣は学園側の同期。影山は外周の目。短く、正確に。」
「了解。」翔太。
「了解。」結衣。
「了解。」影山。
ファンの音が一定に戻り、工具箱の金具がちり、と鳴る。胸ポケットの写真は、重さを取り戻しつつあった。完全ではない。
白縁の薄さはまだ残る。それでも、戻る方向へ動いている。三者三様の心が交差する地点で、やるべきことははっきりしている。
任務の線も、彼らの線も、折らない。今夜、それを証明する。




