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ツヨイチカラ  作者: 桃馬 穂
第5章 揺れる心

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第5.1.1量子パルス:使命と恋の等式

≡ Quantum Pulse 5.1 / Equation of Duty and Love


堤防のコンクリートは、昼の熱をまだ指先に残していた。潮の匂いに少しだけ古いアスファルトの甘さが混じり、舌先には薄い塩の気配。テトラポッドの隙間から海藻の湿った匂いが上がり、遠くの採掘灯が海面に途切れがちな光の道を引いている。


沖の防波堤よりさらに外側、低い台船が二つ、レアアース採取のフレームを立てたまま、作業灯を淡く明滅させていた。金属が冷えるときのじわりとした音。ときどき浮標が小さく鳴り、錆びた鎖がこすれる。


翔太はボードのトラックを指で締め直し、ウィールを弾いて路面のざらつきを確かめた。リモートの起動音が短く走り、風が前髪を持ち上げる。唇に残った塩を親指で拭って、深く息を吸った。


「夜も練習するんだね。」


背中から届く声。ライラが堤防の階段を上がり、翔太の隣に並んだ。制服の上から軽いパーカー、髪は後ろでひとまとめ。


手に小さな端末と写真を一枚。写真の表面は街灯を受けて硬い光を返し、角は少し擦れて白い。端末の通知は、たった今受け取った極秘連絡を示している——アルカディアコネクト本部から。


「天野翔太の血筋が、彼女の世界を救うための絶対条件」。個人名の指定はない。ただ条件だけが、冷たい数字のように置かれていた。


「本番の前に、身体に“斜め”を覚えさせたい。」


翔太は二十メートルほどプッシュして滑り、弧を描いて戻ってきた。ウィールが海風に軽く唸る。


「直線は最後に残す、ってドクが言ってたし。横で勝てるように。」


「横で勝つ、か。」


ライラは静かに笑い、海に目をやった。遠くの採掘フレームが、たまに白く強く、すぐ弱く。波の腹のところで光がちぎれてはまた繋がる。


作業を止めたはずの時間でも、何かが海の底で続いている気配がした。


「…………少し、話せる?」


ライラは端末を胸の前で伏せ、写真を親指で支えた。風がページをめくるみたいにパーカーの裾を揺らす。


「もちろん。」


翔太はボードを脇に立て、堤防の縁へ腰を下ろした。コンクリートの冷たさが、熱の残滓をすぐ奪っていく。


「もし、誰かを守るって決めたら、どれくらい遠くまで考える?」


ライラは海から目を離さない。


「自分の行方まで、相手の行方まで。」


「できるだけ全部、かな。」


翔太は少しだけ間を置いて、言葉を選んだ。


「俺さ、ちっちゃい頃に親父いなくなってるから。もし自分に子どもができたら、今の俺みたいに寂しい思いは絶対させないってずっと思ってた。一緒に遊んで、一緒に飯食って、くだらないことで笑って、なんでもない日をちゃんと守る。大金持ちじゃなくていい。ただ、大切な人を守って、生きていきたいんだ。」


「…………それで、私を助けてくれてるの?」


ライラの声は穏やかだが、胸の奥では極秘の文言が脈を打つ。「条件」。血筋。


遠ざけるべきか、傍に置くべきか。


「それだけじゃないよ。」


翔太は首を横に振った。


「ライラは、きっとこれからも俺の近くにいる気がする。もう一緒に住んでるしな。家族みたいだから。」


「嬉しいけど、意味わかりません。」


ライラは肩で小さく笑った。笑ったあと、唇に乗った塩味に気づき、親指でそっと拭う。自分でも驚くくらい、頬に熱が滲んでいた。


「頼りにしてる、ってこと。」


翔太は照れ隠しにウィールを軽く回した。ころり、と乾いた音が風に紛れる。


「それに…………いつか俺が誰かの父親になっても、今日の気持ちは変わらないと思う。守るって、きっとそういうことだろ。」


「守るって、時々、遠ざけることでもあるよ。」


ライラは写真を差し出した。表面の透明膜が街灯を細く弾き、三人の笑顔が現れる。カナデ、リク、そしてライラ。


後ろには鉄骨の梁と見慣れない標識。乾いた空気の中で撮った一枚。


「危ないところに連れていかない。関係を曖昧にしてでも距離を取る。そういう『守る』もある。」


「俺は下手だな、その守り方。」


翔太は苦笑いした。


「近くにいて守りたい、って思っちゃうから。」


「わたしの世界の家族。」


ライラは言ってから、写真の端を人差し指で押さえた。紙が指に冷たい。


「複雑、でしょ。」


「いい顔してる。」


翔太は光にかざして角度を変えた。


「カナデもリクも、頼れる感じが出てる。――――真ん中のライラの笑い方、ここでの笑い方とちょっと違うな。」


「どっちも本物。」


ライラは即答し、写真を受け取って胸ポケットへ滑らせた。白い縁が一瞬だけ光って、すぐ闇に溶けた。気のせい。


そう自分に言い聞かせる。


「今度さ、みんなでも写真撮ろう。ドクと、結衣と、影山と、郷田も。一枚ぐらい、こっちの“家族写真”。」


「うん。」


ライラは写真を受け取り、胸ポケットへ滑らせた。その瞬間、紙の白縁が街灯を跳ね返し、ほんの一拍だけ薄く見えた気がした——疲れのせい、と思い直す。任務の文言が背後で脈を打つ。


無機質な言葉が、今はやけに重い。


「もうひとつ、夢の話。」


翔太は海の方を向いたまま言った。


「大切な人を、理由じゃなく“名前”で守りたい。『誰か』じゃなくて、『ライラ』を守る、みたいに。」


「それは、反則。」


ライラは笑い、すぐ真顔に戻る。端末の通知が脳裏で再点灯する。「翔太の血筋」。


彼の名に線が引かれる行方と、彼の名を呼ぶいまの自分が、胸の中でぶつかる。


「…………ありがとう。今、私が言えるのは、それだけ。」


「十分だよ。」


翔太は立ち上がり、ボードを肩に担いだ。コンクリートの粉の匂いが少し舞い、喉の奥が乾く。


「明日、早いし。少しでも寝よう。」


「翔太。」


呼び止める声に、迷いが混じる。


「もし、私のせいで危ない目に遭うって分かったら、その時は、私を遠ざけて。嫌いになってもいいから。」


「嫌いになるのは無理だと思う。」


翔太は振り返って、いつもの笑い方で笑った。


「遠ざけることなら、考える。でも、それは守るためじゃなくて、戻ってくるためにやる。離れた先で終わるのは、俺のやり方じゃない。」


堤防の下を、自転車のライトが一つ、ゆっくりと滑った。結衣だ。帰り道を少し遠回りして海を見てから帰るのが癖になっている。


今日も観測ログをリュックに押し込み、風の温度を確かめるみたいにペダルを緩めた。見上げた先、堤防の上に二つの影。聞くつもりはなかったのに、波の切れ間に言葉が乗って降りてくる。


「家族みたい」「守る」「戻ってくる」。結衣はブレーキをかけ、ゴムがきゅ、と鳴った。思わず深く息が漏れる。


「…………はぁ。」


胸の真ん中が少し苦い。理由は分からない。いや、分かりたくない。


自分で自分に追いつかない感じがして、ハンドルのグリップを握る指に汗がにじむ。喉が乾いて、飲み込むたびに砂を噛むみたいな音がする。


「何それ…………家族?」


口に出した声が小さく震える。自分で驚いて、慌てて口を閉じた。リュックの中のログの束を握り直すと、角が指に食い込み、紙がしわになった。


直そうとして、逆に破りそうになってやめる。苛立ちが、なぜか翔太に向かう。「なんで、今、そこでそんな笑い方するの」。


自分でも筋の通らない怒りだと分かっているのに、引っ込まない。ハンドルから片手を離し、スマホを取り出す。「今どこ?


」と打ちかけて、消す。「ごめん、明日渡す」で打ち直して、また消す。ため息がもう一度漏れた。


「…………何やってんの、私。」


視界がふっと白くなる。吐き気、というほどではないけれど、胃が波打つ。自転車を降りて、堤防の脚の影に腰を下ろす。


コンクリートの冷たさが膝から上がって、少し落ち着く。額に触れる指が冷たい。髪の毛先が汗で頬に貼りつき、鬱陶しくてほどく。


深呼吸を三回。ゆっくり立ち上がる。まだ胸はざわついていた。


「明日、ちゃんと話す。」


結衣は小さく決めるみたいに呟いた。穏やかに、でも避けずに。誤解したくないし、されたくない。


だから、逃げない。ペダルに靴を載せ、チェーンがさらりと音を立てる。もう一度だけ見上げると、ライラが胸ポケットに何かをしまうのが見えた。


写真——だと思う。その小さな四角に、自分の知らないライラの笑い方があるのかもしれない。胸がちくりと痛み、結衣は顔を背けて走り出した。


「また明日。」


堤防の上で、翔太が手を挙げる。


「また明日。」


ライラも手を挙げる。波の匂いが少し濃くなり、沖の作業灯が一段強く光ってから、すぐ弱くなった。遠くの台船で、誰かがスイッチを入れ直したのかもしれない。


海は、聞こえない場所でまだ動いている。写真の感触が胸にある。任務の文字は消えない。


けれど、それを上書きするように、いまの声と体温が残った。使命と恋の等式は、解けないまま——ただ、未知数の一つに「翔太」と書いてしまった自分を、もう否定しなかった。


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