第4.2量子パルス:自己犠牲の一歩
≡ Quantum Pulse 4.2 / The First Step of Self-Sacrifice
夜の八時すぎ。住宅街の路地は風が冷えて、電柱のトランスが低く唸っていた。郷田家の外灯は弱く、ポストの口がときどき金属音を鳴らす。
翔太は透明ファイルを脇に抱え、チャイムを押す前に深呼吸をひとつした。ドアがチェーンが掛かったまま十五センチだけ開いた。隙間の縁をつまむ、痩せた白い指が覗く。
「玄関でいいよ。…………ちょっと待って。」
いったんドアが閉まり、チェーンのスライドが外れる音がした。今度は大きく開いて、廊下の電球がじりと鳴り、柔らかな光がこぼれる。
「兄ちゃん、来て。」
奥から足音。長身の影が近づき、肩の包帯でジャケットの襟が持ち上がっている。郷田剛だ。
目の焦点はまっすぐ、でも揺れている。
「ここで騒ぐなよ。近所、静かだし。」
翔太は立たずに言った。三人は上がり框に並ぶ。靴は脱がない。
距離は拳ひとつ分。湯飲みはない。代わりに、呼吸の音がはっきり聞こえる。
「先に流れだけ言っとく。」
翔太は視線をそらさない。
「今日の夜、学校でゴタゴタ。そのあと先生に頼まれてプリント持ってきた。人に会わない時間選んで、ポストに入れて、声かけずに帰る。ずっとそれ。手紙は毎回ちょっと――――“無理すんな”“休むのは逃げじゃない”みたいなやつ。」
「“絵を描ける日は描こう。描けない日は描かないでいい”って書いてた日、泣いた。」
妹——郷田沙希がファイルの角を指で撫でる。
「ありがとう。」
剛の喉が小さく鳴り、拳が固まって、すぐ緩んだ。視線は床に落ち、また戻る。
「…………じゃあ、家の前に何度も立ってたのはお前で、でも“しつこい男”じゃなくて、沙希を助けてたってことか。」
「怖かったのは“男”じゃない。」
沙希が首を振る。
「兄ちゃんが誰か殴りに行くのが怖かった。だから門の外で、ってお願いしてた。」
剛は奥歯を噛む。胃の奥がひやっとして、次の瞬間、胸の底が熱くなる。頭の中の“敵”の位置がずれ、翔太に向けていた矢印が紙の上で方向を変える感覚。
情けなさが脳天から降りてきて、舌打ちが喉で止まった。
「私からも言うね。」
沙希は呼吸を整え、逃げずに続ける。
「ある日を境に、教室で“変な目”になった。グループのチャットで私の写真が勝手に回って、変な文。誰が最初か分からない。止める人もいない。休み時間に机を離されて、“空気読め”って紙。怖くて食べられなくなって、息が速いと体が固まる。外に出られなくなった。先生には“名前は出さないで”って頼んだ。庇われると目立つから。でも繋がる道は欲しかった。だから、ひとりだけ頼んだ。“プリントを沙希に”って。――――それが翔太。」
翔太は拳を膝の上でゆっくり開き、爪の跡を消した。剛はドア枠に拳を置く。殴らない。
木目に熱だけが移る。
「…………的、ズレてたのは俺のほうだな。」
剛は息を吐いた。
「勝手に“犯人”作って、勝手に殴る準備してた。最悪だ、俺。」
「最悪じゃない。」
沙希が袖をつまむ。
「間違えただけ。間違えたら、直す。」
「直す。」
剛は短くうなずき、翔太を見る。
「悪かった。お前を“原因”にしてた。借りができた。」
「借りは一緒に返そう。」
翔太は肩の力を抜く。
「俺も黙ってた。言えば良かった。先生には毎回メモ入れてた。“名前は出さないで続けていいですか”って。ずっと“続けて”って返ってきてた。」
剛は目を細め、しばらく黙る。机をずらした連中、笑った連中、止めなかった連中の顔が順番に浮かぶ。拳がまた固まる。
「…………あいつら、許さねえ。」
「それは最後に残せ。」
翔太が低く制す。
「先にやるのは、沙希が外に出られる道を作ること。学校側への伝え方は俺がやる。名前は出さない。“対策だけ進めて”って学年主任と保健室に通す。先生にももう一回伝える。」
「やれ。」
剛は即答し、肩の力を少し抜いた。
「で――――どうしても気になる。あのターミネーターみたいなやつ、何だ。鉄の塊、あれ。」
「説明する。」
翔太は身を乗り出す。
「“戦闘用アンドロイドUnit07”。作った連中がいて、“入口”をこじ開けようとしてる。学校と海と研究所へ圧をかけてる。俺たちは“聞くだけ”で揺れを拾って、位置と時刻を揃えてる。今夜もやる。二時十三分と五時十七分。もしまた“黒いの”が来たら、逃げ道は先に決めてある。――――手は最後に出す。」
「最後に残すから効く。」
剛は短く笑う。
「なら、俺の条件、はっきり言っとく。作戦で町がざわついて、沙希の近所や通学路に“目”や“ヤバいの”を引き寄せる兆しが出たら、その動きは止めろ。学校と家の周りは絶対に巻き込まない。俺が危ないと判断したら、一旦引かせる。それを守れるなら、俺はそっちに付く。」
「了解。」
翔太はうなずく。
「逃げ道は最初に作る。配置も見直す。単独で突っ走りそうになったら、俺が止める。理由はちゃんと言う。」
「言って止めろ。感情で引っ張るな。」
剛は呼吸を整え、わざと軽口に切り替えた。
「それと大事なこと。」
「何だよ。」
「俺が勘違いした一番の理由は、お前がストーカーみたいな顔してたからだ。お前の顔が悪い。」
「顔のせいにすんな!」
翔太が即座に返し、緊張が少し抜ける。
「じゃ、顔は置いといて中身で勝負な。」
「中身で殴る。いや、殴るのは最後だ。」
「“最後に残すから効く”だろ。」
薄い笑いが通る。路地の風が息を吸い、ポストの口がかすかに鳴った。
「明日の朝、インターホン鳴らしていい。」
沙希が翔太に向き直る。
「私が出る。練習する。外に出る練習。」
「分かった。短く話す。プリントと手紙、また入れる。たまに長いのも。」
「たまにでいい。――――兄ちゃん、無茶しそうになったら翔太に止められて。」
「止められる前に考える。」
剛はうなずき、翔太へ向き直る。
「正式に言う。明日から、俺はそっちに付く。南門は俺が見る。お前は研究所を固めろ。ログは二重化して、俺にも流せ。」
「そうする。数字は嘘つかない。」
「その台詞、気に入った。今夜は信じてやる。」
ドアが静かに閉まり、チェーンの音がカチリと鳴る。外灯の円に二人だけが残る。歩き出す前、剛はふいに立ち止まり、拳を開いてからもう一度握った。
「翔太。ありがとな。」
剛の声は低い。
「手紙のこと、さっき沙希から聞いた。俺は知らなかったのに、勝手にお前を悪者にした。…………そのぶん、取り返す。俺のやり方で。」
「じゃ、取り返すレース、並走で。」
翔太は笑う。
「顔のせいで遅れたって言い訳はナシな。」
「顔はお前が悪い。」
「しつこいな!」
同じ歩幅で角を曲がる。夜気は冷たいが、呼吸はさっきより楽だ。遠くで自転車のブレーキが短く鳴り、どこかの窓が閉まる音がした。
明日の配置と逃げ道の段取りを交わしながら、二人は同じ方向へ消えていった。




