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ツヨイチカラ  作者: 桃馬 穂
第3章 語られざる異世界

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第3.10量子パルス:殴り合いの理由、停戦の線

 ≡ Quantum Pulse 3.10 / Rage, Rescue, and a Rough Truce


 場所は本館二階の渡り廊下。時間は非常口での遭遇の直後、別ルートからの回り込みが動き出したばかり。ガラス越しにグラウンドの声が薄く聞こえ、こちら側だけ空気が重い。


 床のリノリウムに白い粉がまだ薄く残り、足音が立つたびにかすかに舞い上がる。曲がり角の向こうで、金属が擦れる音と短い高音。戦闘用アンドロイドUnit07が、別ルートから速度線を引いている。


 翔太はフラックスボードを脛で押さえ、郷田の袖を掴んだまま息を整えた。怖さは引かない。むしろ増える。


 けれど、足だけは前へ出す。


「離せ。俺はまだ終わってねぇ。」


 郷田が払い落とそうとする。右拳の皮膚は裂け、血が乾きかけて制服に張り付いている。それでも目は前に飛び出しそうな勢いで光っている。


「終わるぞ、今ここで。だから動け。」


「うるせぇ、天野! お前に指図される筋合いはねぇ!」


「だったら生き延びろ。殴るのはそれからだ!」


 ふたりの声が廊下に反響した瞬間、角の向こうから“向き”がこちらに切り替わる気配。膝の補機がキンと鳴り、空気が押し出される。直線の線が引かれた。


「来る——!」


 翔太はボードを踏み、身体を低くして横滑りに入る。郷田の肩を鉄枠側へ寄せ、幅を一人分に狭める。Unit07が角を切って現れ、まっすぐこちらへ。


 硬質外装の継ぎ目、手首の浅い隙、膝関節の補助リンク。頭のどこかがそれを拾うが、手は汗で滑る。さっき背を向けかけた自分の感触が、まだ背骨に残っている。


「勝手にしろ!」


 郷田が吐き捨て、前へ踏み出す。翔太の胸が冷たくなる。心の中の「何なんだよ!


 」が喉まで上がり、そこでこぼれる。どうしてこんな時にまで俺を殴ろうとする。どうして今、この線の前で意地を張る。


 言葉にしたい苛立ちと、言ったら余計に割れるという理性がぶつかる。瞬間、身体が半歩、止まった。


「やめろ、天野。いまは——」


 無線の影山の声が耳の奥で割り込む。短い電気音に続いて、ドクの甲高い声が重なった。


「武勇伝はあとで編集室でやれ! 生き残り優先! 若人、床と鉄と常識を使え!」


 心臓が一回、強く打つ。翔太は奥歯を噛み、意地の半歩を飲み込む。前を見る。


 やることは決まってる。


「郷田、壁際へ。左肘を上げろ。」


「うるせぇ!」


「上げろ!」


 反射で上がった郷田の肘と、鉄枠の角がひとつの“狭さ”を作る。Unit07の肩がそこにわずかに引っかかり、速度が落ちる。翔太はそのわずかな“間”にボードの向きを変え、取っ手へストラップを回した。


 テコが効き、前腕の角度が固定される。火花が一瞬、ぱちりと散った。


「離せ、天野! 俺はお前を——」


「なぜそんなに俺を憎むんだ。ここで言え!」


「貴様、何も分かってないんだな! お前がやったんだよ、あいつを——」


「妹、って誰だ。名前を言え。」


「……沙希だよ! 郷田沙希! お前、分からねぇのか!」


「分からないから聞いてる! 俺は——」


 言い終える前に、Unit07がテコを外して身体を捩り、直線を作り直す。扉のラッチが弾け、鉄が腹に響く音。翔太は咄嗟にボードを蹴り、側面へ逃がす。


 郷田は正面へ踏み出し、真正面の拳を叩き込もうとして——外装に弾かれ、壁で背中を打った。


「ぐ、っ……!」


 呼吸が詰まる音。肩が落ち、右手が空を掴む。Unit07の平打ちが追いかける。


 翔太の足が勝手に動いた。怖さは消えない。消えないから、身体だけ先に動かす。


「こっちだ!」


 鉄枠を叩く。乾いた音。Unit07の“向き”がわずかに逸れ、直線がこちらに引かれる。


 翔太は横滑りで“間”を作り、その“間”に郷田の襟を掴んで引いた。


「離せ! お前に助けられる筋合いは——」


「ねぇ! 知ってるよ! でも今は——」


 息が切れ、言葉が続かない。恐怖と怒りと悔しさが絡まり、声が細くなる。けれど手は離さない。


 離したら、ここで終わる。ボードのブレーキを踏み、狭い階段の踊り場へ身体を滑り込ませる。


「踊り場横抜け、狭路、扉の鉄枠!」無線のライラが短く言う。「視線は肩の線! 正面に立たない!」


「了解!」


 踊り場の壁に背を付け、翔太は一気に言葉を吐いた。


「沙希さんのこと、俺は——悪い噂をかき消すために先生に相談した。名前は出してない。相談窓口の匿名で送った。流れたのは別のところだ。俺じゃない!」


「嘘つけ!」


「嘘なら、今ここで言わない! あの日、理科準備室で泣いてるの、見た。声かけた。何もしてない。『放っといて』って言われて、放っといた。——それが“傷つけた”なら、俺は謝る。謝るから、生きろ!」


 郷田の目が、怒りの熱を保ったまま、ほんの僅かに揺れる。拳を握り直す右手が痛みで震え、歯ぎしりの音が小さく鳴る。Unit07が階段下から回り込む音。


 鉄の段に硬い足が触れる乾いた音が、等間隔で近づく。


「言い訳だろ……!」


「言い訳でいい! ここで死んだら、言い訳すらできない!」


 翔太はボードを床に置き直し、踊り場の端へ移る。視界の端に、壁際の緊急防火シャッターの手動レバー。先生が避難訓練のときに見せた赤いハンドル。


 人を閉じ込めないため、降下速度は遅い。だが、直線を一瞬切るには十分。


「あそこまで引く。俺が釣る。お前は——」


「命令すんな!」


「頼む! 左肘、前!」


 郷田は舌打ちし、左肘を前へ出した。翔太はボードを蹴り、階段下から顔を出したUnit07の“向き”をわざと自分に寄せる。鉄枠を叩いて音を送る。


 膝の補機が鳴り、直線が引かれた。来る。速い。


「今!」


 翔太はハンドルを全力で引いた。防火シャッターが落ち始める。遅い。


 ギリギリまで引き付けて、ボードを横へ捻る。肩がかすめ、外装の冷たさが皮膚を撫でる。シャッターがUnit07の肩に当たり、速度線が一瞬だけ切断される。


 完全に閉まる前に、Unit07は自動で姿勢を低くし、潜り抜けてしまう。閉じ込めはできない。だが、直線は途切れた。


「抜ける!」


 翔太は郷田の襟を引き、渡り廊下の狭路へ滑った。背中に熱い痛み。シャッターの縁が肩を擦ったのかもしれない。


 視界の端が白くなる。怖いけど、まだ動ける。


「オレは、オレは——」


 郷田が何かを言いかけ、言葉が崩れる。右拳の痛みで膝が揺れる。Unit07は潜り抜け、姿勢を立て直してこちらを見る。


 直線をまた描く。まっすぐ来る。止まらない。


「結衣、体育館裏から人の流れを増やして。『点検』のふりで。」無線の影山。「混ぜる。目を薄める。」


「了解。先生に伝える。」結衣の声が息に混じる。


「博士、研究所の“耳”は?」


「生きてる! 若人、直線を作らせるな! 扉と角と世間体を使え!」


「世間体?」


「人目だ! 人は最強の安全装置だ!」


 やけくそ気味のドクの声に、翔太の口元がわずかに緩む。緩むのは怖いからだ。緩めないと固まるからだ。


「体育館側に出る! 郷田、ついてこい!」


「俺は——」


「お前が死んだら、俺は沙希さんに何も言えない!」


 言い切ると、郷田の足が半歩、揺れた。怒りは消えない。けれど、その半歩ぶんだけ、動く先が同じになった。


 三つ巴の三角形の一角が、ほんの少しだけ丸くなる。最後の角。翔太はボードを横に向け、鉄枠の扉を肩で押し開けた。


 体育館裏の通路。遠くでバスケの笛。日常の音が濃い。


 Unit07は直線を描いたまま付いてくるが、人影の端を見て速度がわずかに落ちる。人目。世間体。


 ここでの行動は、別の規約に縛られる。


「ここまで。今夜は終わり。」


 影山の声が落ちる。「混ぜろ。散れ。


 ——退避。」 翔太はボードを抱え、郷田の肩を支えた。郷田はその手を払おうとして、右手の痛みに顔を歪め、やめた。


 拳をぶら下げたまま、俯いて息を吐く。


「お前に助けられる筋合いは、ねぇ。」


「知ってる。だから、借りにしろ。返せ。生きてから返せ。」


「……チッ。」


 郷田は顔を背け、左肩で翔太の手を弾いた。だが、弾き方は弱かった。二、三歩歩いてから立ち止まり、振り返らずに言う。


「さっきの話、信じねぇ。だが、聞くだけはしてやる。」


「全部、言う。沙希さんにも謝る。——俺が間違ってたところは、俺が直す。」


「当たり前だ。」


 そこまで言って、郷田はやっと翔太を一瞥した。怒りの熱はまだある。だが、その奥に、別の温度がほんのわずかに見えた。


 拳を握り直し、歯を食いしばり、鼻で笑う。


「借りは借りだ。野暮な真似はしねぇ。」


「返す時は、俺の選んだ形で返せよ。」


「は? なんだそれ。」


「生き延びる手伝いを、俺にさせるって形で。」


 郷田は舌打ちし、笑いもしないで歩き出した。歩幅は少し不揃いだが、背筋は折れていない。翔太はボードを肩に担ぎ、無線に一言落とす。


「退避、完了。目的は達成、損耗は軽微。——記録、送る。」


「受け取った。」影山。


「よくやった。」ライラ。


「武勇伝は編集室でまとめてから持ってこい!」ドク。


 体育館の扉が閉まり、騒がしさが壁越しに遠のく。白い粉の匂いは薄れ、代わりにワックスの匂いがわずかに立った。日常へ戻る通路は、たった数十メートル。


 それでも、そこを抜けるまでの足取りは、妙に長く感じられた。廊下の角を曲がる前、翔太は一度だけ振り返った。誰もいない。


 けれど、さっきまで直線が走っていた気配は、まだ床に残っているような気がした。胸の奥でさっきの言葉がもう一度、疼く。「勝手にしろ」と言った自分の声。


 あの一歩を、次の一歩で埋め続ける。その決めごとだけを握り、翔太は前を向いた。その夜、校内には「非常口の扉の一部損傷、点検済み」という短い掲示だけが増えた。


 名は出ない。名付けない。見たことを記録し、次に備える。


 乱闘の余韻は、静かな空気の底に沈み、明日に持ち越された。ぶっきらぼうだが、確かな相互承認が、廊下のどこかに細い線で引かれていた。


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