第9話 三十日だけない
朝、セシリアは共同記録の『その他』欄を見て首を傾げた。
『悪くなかった』
「何が?」
自分で書いたらしい。
今日、昨日を忘れたのはセシリアだった。
昨夜の舞踏会も、夫と踊ったことも、きれいにない。
記録にはある。
『王宮舞踏会。公爵と一曲目を踊る』
そこまでは分かった。
だが、なぜ『悪くなかった』などと書いたのかが分からない。
「アレクシス様」
「何だ」
「昨日、私たちは踊ったのですね」
「ああ」
「どんな感じでした?」
夫が書類から顔を上げた。
「どんな感じと言われても」
「普通でした?」
「……普通ではなかったと思う」
セシリアは待った。
アレクシスも黙った。
「続きは?」
「君が妙な質問をした」
「何を?」
「なぜ私が君と踊りたいのか、と」
「答えました?」
「君と踊りたかったからと」
「そうですか」
そこで会話が終わる。
終わったのに、セシリアは帳面の『悪くなかった』をもう一度見た。
「……随分控えめに書いたのね」
「何か言ったか?」
「いいえ」
昨日の自分が少し羨ましい。
変な感覚だった。
午前は戦時軍費の書類を調べた。
婚姻印の異常が、アレクシスが以前から行っていた調査と関係する可能性が出てきたからだ。
彼が半年ほど前から集めていた資料は、思ったより多かった。
「これを全部一人で?」
「部下には一部手伝わせた」
「私には一言も?」
アレクシスは聞こえなかったふりをした。
「聞こえていますよね」
「後で話す」
「便利な言葉です」
「今話すと調査が進まない」
「では記録しておきます」
共同記録へ『夫、回答保留』と書く。
「それは消せ」
「嫌です」
午後、古い税関資料へ移った。
十五年前、大規模な戦闘が止まる直前の半年分。
通行許可、関税、軍用輸送。
セシリアは数字を追うのが好きだった。
正確には、数字が好きというより、数字が勝手に言い訳をしないところが好きだった。
人は「仕方なかった」と言う。
帳簿は、百二十七樽なら百二十七樽だ。
少なくとも誰かが改ざんするまでは。
「ここ」
セシリアは指を止めた。
「何だ」
「第三税関の通行簿です」
一日ごとに一頁を使う、革綴じの厚い帳面だった。
頁番号を確認する。
四百十二。
次が四百四十三。
「三十頁抜けています」
アレクシスが手を伸ばした。
綴じ糸を見る。
「破れたのではない。切ってある」
「いつ?」
「分からない」
前後の日付を確認する。
十五年前、大規模な戦闘が止まる四十六日前から十七日前まで。
ちょうど三十日。
セシリアは別の保存箱を探した。
税額集計表。
月報。
出入国者一覧。
どれもその期間だけ、妙に情報が薄い。
「偶然でしょうか」
「三十日ぴったりはな」
「あなたはこの欠落に気づいていた?」
「……分からない」
アレクシスの声が低くなった。
「この帳簿が届いたのは一昨日だ。私にはその日の記憶がない」
「一昨日、封は開けていません。私が受け取って保管しました」
発送票と受領簿を確かめる。一昨日の共同記録にも、未開封とある。
「では、まだ見ていなかったのだな」
「その可能性が高いです。あなたの半年分の調査資料にも、この綴じ目の記録はありません」
記憶がないからといって、すべてを呪いのせいにするわけにはいかなかった。
「リーゼ殿を呼びます」
「待て」
「なぜ」
「まず資料を動かさず記録する」
セシリアは口を閉じた。
正しい。
「……はい」
「今、私の方が慎重だったな」
「いちいち言わないでください」
写真術具を扱う記録官を呼び、切られた頁の端と前後の見開きを撮らせる。
保存箱の封印番号も記録。
作業を終える頃には日が傾いていた。
セシリアは三十日という数字を紙へ書く。
「何があったのでしょう」
「分からない」
「戦争末期です。軍の移動か、密輸か、難民か」
「全部あり得る」
アレクシスは切られた綴じ目を見ていた。
「ただ、誰かが残したくなかったことがある」
「三十日分も?」
「ああ」
その夜、共同記録へ書いた。
『第三税関通行簿、大停戦前の三十日分欠落。人為的に切除』
セシリアは少し迷った後、その下へ追記する。
『昨日の舞踏会について、私は今日覚えていない』
仕事とは関係ない。
でも書いた。
『公爵によれば、一曲目を一緒に踊ったらしい』
そこまで書き、ペンを止める。
『その他』
『悪くなかった、らしい』
自分で書いて少し腹が立った。
記憶がないのに、昨日の自分にからかわれている気がした。




