第8話 忘れても、同じ人を選ぶ
アレクシスは共同記録を開くなり、眉間に皺を寄せた。
「『本日の公爵は非常に面倒だった』」
声に出して読んだ。
「はい」
「説明がない」
「その他ですから」
「その他なら何でも許されるのか」
「あなたが作った欄です」
夫は黙った。
少し気分がいい。
今日はアレクシスが昨日を忘れている日だった。
そして夜には王宮の秋季舞踏会がある。
それを思い出すと、セシリアの気分は少し下がった。
昨日。
共同執務室を出る前に、アレクシスは言った。
『明日の舞踏会、一曲目をもらってもいいか』
セシリアは珍しく、すぐ答えられなかった。
夫婦なのだから踊ること自体は普通だ。
だが彼は大きな宴席では公務上必要な相手と踊ることが多い。
セシリアも同じだった。
二人が最初の一曲を約束するのは初めてだった。
『はい』
結局、そう答えた。
そして今朝。
夫は忘れている。
共同記録には舞踏会の予定は書かれている。
ただし、一曲目の約束は書かなかった。
書こうとはした。ペン先を浮かせたまま迷い、そのまま帳面を閉じてしまった。
もし書いておけば、アレクシスは約束を守る。
でもそれは、紙に書いてあったからだ。
なぜそんなことが気になるのか。
我ながら面倒くさい。
「今夜の舞踏会だが」
アレクシスが書類を見ながら言った。
セシリアの肩が少し固くなる。
「はい」
「君は何時に入る?」
「七時半です」
「私は七時に国王陛下と打ち合わせがある」
「存じています」
「では会場で」
「はい」
それだけ。
やはり覚えていない。
当然なのに、少し腹が立った。
夜。
王宮大広間は人でいっぱいだった。
セシリアはリデール大使夫妻へ挨拶し、次に財務院長夫妻、国境侯爵夫人と話した。
仕事としてはいつも通り。
視線だけが時々、入口へ向かう。
「奥様」
隣のマルタが小声で言った。
「何?」
「扇を開いたり閉じたりするのをおやめください。壊れます」
見ると、確かに同じ動作をしていた。
「暑いのよ」
「涼しいです」
「では手持ち無沙汰」
「素直でよろしいです」
腹が立つ。
七時五十五分。
楽団が準備を始める。
アレクシスはまだ国王の側にいた。
八時。
一曲目の合図。
何人かの男性がセシリアへ近づきかけた。
政略夫婦とはいえ、公爵夫人の一曲目には意味がある。
開会の一曲は夫婦で踊る者が多い。ただ、公務の挨拶が長引くこともあり、二人もこれまでは別の相手と踊っていた。
今日は夫が来ないだけで、何かあったのかと勘ぐられそうだった。
セシリアは笑顔を作った。
こういう時は慣れている。
期待しなければいい。
約束を忘れているのだから、責めても仕方がない。
伝えなかったのは自分だ。分かっているのに、入口を見るのをやめられない。
「セシリア」
名前を呼ばれた。
振り向く。
アレクシスが人混みを抜けてこちらへ来る。
少し急いだらしく、いつもきっちりしている前髪が一筋だけ落ちていた。
「遅くなった」
「陛下とのお話は?」
「終わった」
「そうですか」
夫はセシリアの前で足を止めた。
そして、手を差し出す。
「最初の一曲をいただけますか」
セシリアはその手を見た。
「……なぜ?」
「なぜ?」
「いえ」
変な質問をした。
アレクシスも困っている。
「夫婦だから、では駄目か」
「いつも最初に踊るわけではありません」
「そうだな」
「では、なぜ今日?」
しつこい。
分かっている。
アレクシスは少し考えた。
「君と踊りたいと思ったから」
あまりに普通の答えだった。
セシリアは返事ができない。
「嫌なら」
「嫌ではありません」
慌てて手を重ねた。
曲が始まる。
夫の手が腰へ回る。
何度も一緒に踊ったことはある。
それなのに今日は、妙に近い。
「足を踏んだらすみません」
「君は踏まないだろう」
「忘れているかもしれません」
「踊り方は忘れていない」
「そうでした」
少し笑った。
アレクシスも笑う。
その顔を見て、セシリアは困った。
昨日の夫が約束した。
今日の夫は忘れた。
なのに同じことをした。
これは記録できる。
日時も、場所も、曲名も。
でも、今胸の奥にあるものを何と書けばいいのかは分からない。
「何を考えている?」
「共同記録に書けないことです」
「それは多いな」
「最近気づきました」
曲が終わる。
アレクシスが手を離した。
少しだけ名残惜しいと思った。
その夜。
共同記録の『今日起きたこと』に、セシリアは書いた。
『王宮舞踏会。公爵と一曲目を踊る』
その先でペンが止まる。
昨日も同じ約束をしたこと。
それを彼が忘れていたこと。
それでも今日、同じ相手を選んだこと。
長くなりそうだったので、書かなかった。
代わりに『その他』へ一行。
『悪くなかった』
何が、とは書かなかった。
寝る前にもう一度開き、小さく足した。
『次の舞踏会も、一曲目は空けておくこと』
今度は忘れた自分にも分かるように。




