第7話 私は帰らない
翌朝、セシリアは共同記録を開いて、自分が昨日かなり機嫌を悪くしていたらしいと知った。
記憶はない。
だが自分の字が荒れている。
『帰国を勧められる。拒否』
拒否、の最後の払いが長い。
「怒っていたのね」
「相当な」
アレクシスが答えた。
「あなたに?」
「私にも」
「何をしたのです」
「君の安全を考えて、帰国案にも一理あると言った」
「それは怒ります」
「昨日の君にも同じことを言われた」
「では二日続けて反省してください」
アレクシスが額を押さえた。
「記憶を失っても性格は変わらないな」
「昨日一日で人格は変わりません」
当然である。
朝食後、セシリアは執務官を呼んだ。
「隣の小会議室を空けてください」
「何にお使いで?」
「共同執務室にします」
アレクシスが顔を上げた。
「今の部屋から移すのか」
「はい。机を借りたままでは、いつまでも仮住まいですから」
「私の部屋では狭いか」
「狭いです。昨日はあなたの部下が私の椅子をまたぎました」
「それはすまなかった」
「部屋が空いているなら、移ってもよいですか」
執務官は目を泳がせている。
夫婦喧嘩を見物させる趣味はない。
アレクシスが頷いたのを確かめてから、セシリアは執務官へ向き直った。
「午後までにお願いします」
「かしこまりました」
執務官は逃げるように出ていった。
アレクシスが腕を組む。
「私の執務室では駄目なのか」
「あなたの部下が出入りします。私の外交書類もあります」
「では君の執務室」
「同じ理由です」
「だから中間」
「はい」
合理的なはずなのに、なぜか夫の顔が微妙だった。
「嫌ですか?」
「嫌ではない」
「では決定です」
「……君は本当に早いな」
昼過ぎ、小会議室へ机が二つ運ばれた。
向かい合わせに置かれそうになったので、セシリアは並べて置かせた。
「書類を見せ合うならこちらの方が楽です」
「近くないか」
「嫌なら離します」
「嫌とは言っていない」
「ではこのまま」
アレクシスは何か言いたげだったが、諦めた。
共同記録は机の中央。
その左右に、それぞれの書類。
奇妙な職場になった。
午後は、婚姻印の由来を調べた。
十五年前、大規模な戦闘はいったん止まった。だが正式な和平までは遠く、国境では小競り合いと暫定協定が長く続いた。
二年前。ようやく結ばれた恒久和平条約。
結婚式の誓約書。
魔術院の術式証明。
セシリアは自分の署名を見る。
もちろん覚えている。
二年前。
まだアレクシスとほとんど会話もしたことがなかった頃。
「ここ」
彼が条文を指した。
『婚姻当事者の一方にのみ、条約上の魔術的負担を課してはならない』
「これは君が入れさせた条項だったな」
「はい」
「理由は?」
「あなた一人へ罰則術式を集中させる案が出ていたからです」
当初、条約違反が起きた場合の魔術的反動を王弟であるアレクシス側だけが負う案だった。
リデール側の強硬派が要求した。
セシリアは反対した。
「公平でないと思いました」
「敵国の人間だった私を庇ったのか」
「当時はまだ夫でもありませんでしたし」
「だから聞いている」
「不公平は不公平です」
それだけだった。
アレクシスは条文をしばらく見ていた。
「何です?」
「いや」
「最近、あなたの『いや』は信用できません」
「ひどいな」
「実績があります」
調査は進まなかった。
古い術式は複雑で、リーゼから「勝手に触らないでください」と釘を刺されている。
夕方になる頃、セシリアは机に突っ伏したくなった。
実際にはしない。
王女は机に突っ伏さない。
少なくとも人前では。
「疲れたか」
「少し」
「今日は終わりにしよう」
「まだ国境税率の確認が」
「明日でもいい」
「明日はあなたが今日を忘れます」
「だから記録がある」
その言い方が、少し癪だった。
記録があれば全部平気なわけではない。
けれど反論するほどでもない。
セシリアは帳面を開いた。
今日の記録を書く。
新しい共同執務室。
和平条約の確認。
進展なし。
最後に、何となく書く。
『本日の公爵は非常に面倒だった』
ペンを置いた。
「何を書いた?」
「明日読めば分かります」
「見せろ」
「共同記録ですから、明日読んでください」
アレクシスが手を伸ばす。
セシリアは帳面を閉じて抱えた。
「子供ですか」
「君が妙なことを書くからだ」
「まだ読んでいないでしょう」
「顔で分かる」
セシリアが帳面を机へ戻すと、アレクシスも手を引いた。
「それとは別に、聞きたいことがある」
「何です?」
「明日の舞踏会、一曲目をもらってもいいか」
今度は帳面で顔を隠したくなった。
さっき置かなければよかった。
「……はい」
アレクシスはそれを聞いて、ようやく帰り支度を始めた。
セシリアはまだ、立てなかった。




