第6話 帰国を勧められる
翌朝、共同記録を読んだアレクシスは、末尾の注意書きで止まった。
『妻が黙っていても、答えを代わりに言わないこと』
「昨日の私はそんなに悪かったか」
「悪かったです」
「即答だな」
「覚えている私が答えていますので」
アレクシスは帳面を閉じた。
「分かった」
「何が?」
「今日は黙る」
「必要な時は喋ってください」
「難しいな」
「普通にしてください」
「それが一番難しい」
朝から面倒な夫だった。
その日の午前、国務卿ヴァルターが公爵邸を訪れた。
灰色の髪をきっちり撫でつけた、五十代後半の男だ。
戦争中から国境政策を担当し、和平条約の締結にも関わった。
セシリアにとっては、結婚式の日から知っている顔である。
「このような時に押しかけて申し訳ない」
応接室でヴァルターは深く頭を下げた。
「しかし、王宮内でも噂が出始めております」
「早いですね」
セシリアが言う。
「昨日の会議で少し不自然な場面がございましたから」
「私が質問へすぐ答えなかった件ですか」
「それだけではありません」
ヴァルターは言いにくそうに息をついた。
「公爵閣下も、一昨日の決裁を確認し直したと聞いております」
アレクシスは一昨日の決裁そのものは覚えている。その前日に出された報告を忘れたため、根拠を確認し直したのだ。
そして今日は、また別の一日が抜けている。
説明するだけでもややこしい。
「病名は?」
「まだ分かりません」
セシリアが答える。
「原因も?」
「調査中です」
「治癒の見込みも」
「同じです」
ヴァルターはしばらく黙った。
責めるような顔ではない。
むしろ本気で心配しているように見える。
「殿下」
「はい」
「一度、リデールへ戻られてはいかがでしょう」
セシリアは瞬きをした。
「私だけ?」
「公爵閣下には国境防衛の責任がございます。ですが殿下は、本国で静養される方が安全でしょう」
「安全」
「もちろん一時的な話です」
ヴァルターは丁寧に続ける。
「ご病状が明らかになるまで、公務も控えられた方がよい。万一外交上の判断に誤りが出れば、殿下ご自身が傷つきます」
言っていることは分かる。
とても分かる。
だから腹が立った。
「アレクシス様は?」
「私?」
急に振られ、夫がこちらを見る。
「どう思います?」
アレクシスは迷った。
迷った時点で答えは見えた。
「……安全だけを考えるなら、一理ある」
「そうですか」
「待て。帰れと言っているわけでは」
「まだ言っていませんね」
「セシリア」
「公爵閣下」
わざと称号に戻す。
ヴァルターが視線を伏せた。
気まずいのだろう。
セシリアも気まずい。
しかし今さら引くのも嫌だった。
「なぜ皆さん、私の居場所を私より先に決めるのです?」
「殿下、そのような意図では」
「国務卿。抜けている日があるのは事実です。ですが、祖国の場所も、自分の名前も、この国へ来た理由も忘れていません」
「承知しております」
「なら私は判断できます」
ヴァルターはすぐに反論しなかった。
「もちろんです」
そう言って頭を下げる。
拍子抜けするほど穏やかだった。
「ただ、私には国務卿として、危険を申し上げる義務がある。殿下が残られると決めれば、その決定は尊重いたします」
セシリアは少しだけ困った。
相手がもっと嫌な人間なら、怒りやすかったのに。
「ありがとうございます」
話はそこで終わった。
ヴァルターが帰った後、アレクシスは応接室に残った。
セシリアは立ち上がる。
「仕事がありますので」
「待ってくれ」
「何でしょう」
「怒っているな」
「はい」
否定するのも馬鹿らしい。
「私が帰国に賛成したからか」
「賛成したわけではないのでしょう?」
「一理あると言った」
「同じようなものです」
「違う」
夫は少しむっとした。
珍しい。
「君の安全を考えただけだ」
「またそれです」
「何が」
「安全。心配。巻き込みたくない」
最後の言葉に、アレクシスの顔がわずかに変わった。
セシリアは気づいた。
「何です?」
「いや」
「今、何か」
「何もない」
明らかに何かある。
問い詰めようとして、やめた。
怒っている状態で話してもろくなことにならない。
「私は帰りません」
「……分かった」
「原因を調べます」
「危険なら止める」
「相談はしてください」
「努力する」
「そこは約束してください」
「……約束する」
少し間があった。
その間も気に入らない。
セシリアは部屋を出た。
廊下でマルタが待っていた。
「奥様」
「何?」
「お戻りにならないのですね」
「帰った方がいい?」
「いいえ」
マルタは即答した。
「ただ、公爵様は今頃、自分が何を間違えたか半分くらいしか分かっていないと思います」
「半分も分かっていれば上出来です」
「奥様も似たようなものですけれど」
セシリアは足を止めた。
「私?」
「はい」
「どこが?」
「それが分からないところです」
侍女はそのまま歩いていった。
腹が立つ。
今日は腹が立つ相手が多い。
夜、共同記録にはこう書いた。
『国務卿ヴァルターより帰国を勧められる。拒否』
『私は残る。原因を調査する』
その下にアレクシスが追記した。
『明日のセシリアへ。帰国しないという決定を承知した。私にも相談してほしい。私も先に相談する』
セシリアは少し迷って、その一行には何も書き足さなかった。




