第5話 記憶のない公爵夫人
王宮へ向かう馬車の中で、セシリアは共同記録を読んでいた。
三度目だった。
「もう閉じてもいいのではないか」
向かいのアレクシスが言う。
「今日の議題変更を私は覚えていません」
「記録には書いてある」
「だから読んでいるのです」
「三度も」
「何度読もうと私の勝手でしょう」
口調が尖った。
昨日の記憶がない朝は、機嫌が悪くなるらしい。
自分で自分の傾向を知るのも、あまり気分のいいものではない。
共同記録には、昨日決まった会議の変更点が簡潔に書かれていた。
『明日、国境第二橋の補修費を予定に繰り上げて審議。財務院は追加支出に反対。第三税関から新資料あり』
字はアレクシス。
その下に小さく、
『セシリアは夕食の魚を残した。骨が多かったためと思われる』
ともある。
余計だ。
「昨日、私は補修案に賛成していましたか」
「していた」
「理由は?」
「税関馬車の事故が増えているからだ」
「記録にありません」
「……私が書いたのか」
「あなたです」
「悪かった」
「いいえ。私も書き忘れるでしょうから」
そう言ったものの、不安は消えない。
昨日の自分は何を見て、何を考えたのか。
紙の数行だけで今日の自分が判断していいのか。
王宮に着く。
会議室にはすでに十人ほど集まっていた。
王国側の財務官、軍務官、国境領の代表。それにリデール王国から来ている補佐官が二人。
セシリアはいつもの席へ座った。
向かいに座った財務官ボードワンが、書類をめくりながら言った。
「では、昨日追加された補修案から始めましょう」
昨日。
その言葉が、今は妙に引っかかる。
資料が配られる。
数字を見る。
橋脚三本の交換。石材費。人夫費。通行止めによる損失見込み。
数字は理解できる。
昨日の自分が読んだ時と、今日の自分が読む時とで、数字そのものは変わらない。
「公爵夫人殿下」
ボードワンに呼ばれた。
「昨日の事前協議で、殿下は第三案を支持されましたな」
「はい」
「それでは、理由を改めて伺っても?」
セシリアは口を開いた。
言葉が出なかった。
理由。
馬車で夫から聞いた理由は、事故が増えているから。
それだけなら言える。
けれど昨日の事前協議では、もっと細かい話をしたのではないか。
誰かが何かを言ったのでは。
数秒。
たった数秒なのに、室内の視線が集まるのが分かった。
「第二橋は」
隣のアレクシスが口を開く。
「昨月だけで荷車の転倒が三件あった。人命被害はないが、冬前に補修しなければ」
「アレクシス様」
セシリアが遮った。
夫が止まる。
「私が質問されています」
「……そうだったな」
少し気まずそうに口を閉じた。
会議室の空気が変わった。
セシリアは一度息を吸う。
「昨日の私は第三案を支持したようですが、今日の私は資料をもう一度確認した上で答えます」
何人かが顔を見合わせた。
「何か問題が?」
ボードワンが聞く。
「いいえ。昨日の判断を今日の私が無条件に引き継ぐ理由がないだけです」
半分は本当。
半分は強がりだった。
資料を読み直す。
事故記録。
荷車三件。
二件は雨天。
一件は荷物の積載超過。
橋の強度だけが原因とは言い切れない。
「補修自体には賛成します。ただし第三案ではなく第二案を。全面通行止めではなく片側ずつ工事を進めます」
「片側を開けたままで、安全は確保できますか」
「技師の添付図では、仮支柱を入れれば可能とあります。重量制限と雨天時の閉鎖は必要です」
その図を示すと、ボードワンは次の頁をめくった。
「費用は増えますぞ」
「通行止めによる商人側の損失は減ります。総額では差が小さい」
数字を示す。
ボードワンが眉を寄せる。
「昨日と意見が違う」
「昨日の私なら、今日の私に文句を言うかもしれません」
少し笑いが起きた。
そのおかげで空気が緩む。
会議は続いた。
終わった後、廊下へ出たところでアレクシスに呼び止められた。
「すまなかった」
「何がです?」
「途中で答えた」
「はい」
「助けるつもりだった」
「分かっています」
「なら」
「分かっていることと、嬉しいことは別です」
夫が黙った。
まただ。
セシリアは少し言い過ぎたかと思ったが、戻す気にはなれない。
「私は昨日を忘れました。だからといって今日の私まで使えなくなったわけではありません」
「使えないなどと思っていない」
「では私の代わりに答えないでください」
「……分かった」
素直に引かれると、それはそれで拍子抜けする。
アレクシスは少し先を歩き、ふと振り返った。
「第二案の方がよかった」
「何の話です?」
「橋だ。昨日の君より今日の君の案の方がいい」
「昨日の私は反論できませんから、勝ったことにしておきます」
「そうしてくれ」
そこだけは、少し笑えた。
その夜、共同記録へ今日の出来事を書く。
会議で詰まったことも書いた。
夫が勝手に答えたことも。
腹が立ったことまでは書かなかった。
少し迷って、追加する。
『明日のアレクシス様へ。妻が黙っていても、答えを代わりに言わないこと』
書いた後で、嫌味だと思った。
それでも残し、隣にもう一行足す。
『助けが必要な時は、私からお願いします』
ペンを置くと、廊下から夫の足音がした。
今なら、今日のうちに言える。セシリアは帳面を持たずに扉を開けた。




