第4話 二人で一人分の昨日
翌朝、アレクシスは共同記録を三回読んだ。
「昨日の私は、リーゼに二度も同じ質問をしたのか」
「はい」
「書く必要があったか?」
「『同じ質問を二度しない』という改善につながります」
「君は昨日の私に厳しいな」
「今日のあなたにも同じです」
呪いが始まって三日目。
今日忘れたのは夫だった。
予想通りだったことで、少し安心した自分が嫌になる。
少なくとも法則はある。
法則のない災難よりはましだ。
共同記録には、セシリアが罫線を引いた。
『今日起きたこと』
『明日の相手が必ず知るべきこと』
『保留事項』
三つ。
アレクシスはそれを見て、少し考え、余白に勝手に四つ目を作った。
『その他』
「その他とは?」
「三分類に入らないもの」
「それでは分類した意味がありません」
「入らないものが出た」
「例えば?」
夫は帳面をこちらへ向けた。
『セシリアは昨日の昼食を三分の一残した。夕食は完食』
セシリアは読む。
もう一度読む。
「これは『今日起きたこと』でいいのでは」
「重要度が違う」
「何の?」
「体調管理の」
「私は子供ではありません」
「知っている」
腹が立つ。
しかし昨日を忘れた夫が、昨夜自分で書いた食事量を新しい欄へわざわざ書き写しているのは、おかしかった。
笑うほどではない。
笑うほどではないので、セシリアは口元を押さえた。
「笑ったな」
「いいえ」
「今」
「気のせいです」
アレクシスは不満そうだった。
午前中、リーゼが追加検査に来た。
結果は芳しくない。
「婚姻印から何かが流れ込んでいる、というところまでは確かです」
「何か」
「魔力です。術式の種類が分かりません」
「昨日は記憶術だと言っていなかったか」
「昨日の私は推測と言いました」
「共同記録には『記憶術の可能性』とあります」
「でしょう? 可能性です」
リーゼは胸を張った。
少し腹が立つ専門家である。
「では、婚姻印を消せば?」
セシリアが聞く。
リーゼの顔が曇った。
「簡単には消せません。あれは婚姻証明だけではなく、和平条約の担保術式と接続されています」
「つまり私たちが離婚したら、条約にも影響する」
「そこまで単純かは調べないと。ただ、今すぐ試すのはやめてください」
「試しません」
アレクシスが即答した。
セシリアは夫を見た。
「私も今すぐ離婚するとは言っていません」
「念のためだ」
「何の念です?」
「君は結論が早い」
「あなたは説明が遅い」
リーゼが二人の顔を交互に見た。
「私、席を外しましょうか」
「不要です」
二人同時だった。
リーゼが笑った。
午後は通常業務へ戻った。
戻らなければならない。
呪われたからといって税関は休まないし、農民が麦を出荷する日もずらしてくれない。
セシリアは交易税の改定表を確認し、アレクシスは国境守備隊の報告を読んだ。
隣の机。
以前なら別々の執務室でやっていた。
今はアレクシスの執務室へ予備の机を運び込み、当面そこで一緒に仕事をしている。
「昨日、第三税関から使者が来たそうだな」
「ええ。橋の補修費についてです」
「何と言っていた?」
「共同記録に」
「読んだ。ただ、書いていないことは?」
セシリアは少し考えた。
「書記官がひどく汗をかいていました」
「暑かったからでは」
「昨日は雨でした」
「では緊張か」
「かもしれません」
「他には」
「あなたが途中で咳をしました」
「それは要らない」
「書いていないことを聞いたのでしょう」
アレクシスが苦い顔をした。
こうしてみると、記録は妙だった。
文字にすれば出来事は残る。
しかし、その場の空気までは残らない。
第三税関の書記官がなぜ汗をかいていたのか。
夫がどんな声で質問したのか。
自分が何を疑ったのか。
全部書けばいいというものでもない。
日が暮れる頃、アレクシスが帳面を書いていた。
セシリアは横から覗いた。
『今日起きたこと』
交易税改定表を確認。
第三税関からの報告を再確認。
リーゼの検査。進展なし。
『明日の相手が必ず知るべきこと』
明日はセシリアが今日を忘れる。
午後、王宮で会議。
『保留事項』
婚姻印の術式解析。
そこまではよかった。
『その他』
セシリアは午後、菓子を二つ食べた。
「アレクシス様」
「何だ」
「これは消してください」
「なぜ」
「国政に関係ありません」
「その他だからな」
「その他を廃止します」
「横暴だ」
言い合っているうちに、マルタが夕食の支度ができたと呼びに来た。
結局、その一行は残った。
その夜、セシリアは寝台へ入ってから、自分の明日のことを考えた。
明日の自分は今日を知らない。
菓子を二つ食べたことも。
夫とくだらない言い合いをしたことも。
少しだけ笑ったことも。
菓子の数なら書いてある。笑った時に夫が何と言ったのかは、もう少し怪しい。
セシリアは寝台を下り、机に残してあった便箋を取った。
『二つ目の菓子は、私が欲しそうにしていたので夫がくれた』
共同記録に挟もうとして、やめた。自分の枕元へ置く。
そこまで書いてようやく、明日の朝も少しはましだろうと思えた。




