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今日は夫が忘れる日  作者: 秋月 もみじ


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33/34

第33話 誰も忘れていない朝

 第一鐘が鳴った。


 セシリアは目を閉じたまま数えた。


 一回。

 二回。

 三回。


 いつもと同じ鐘だった。


 昨日の朝食を思い出す。


 卵を半分残した。

 アレクシスは完食した。


 小礼拝堂。


 三枚の書類。


 左手首の痛み。


『私はあなたを愛しています』


 自分が言った。


 覚えている。


 全部。


 セシリアは跳ね起きた。


「マルタ!」


 声が大きすぎた。


 隣室からすぐ返事。


「はい!」


 侍女長が入ってくる。


 セシリアは寝台の上で言った。


「覚えている」


 マルタの顔が緩んだ。


「そうですか」


「昨日を全部」


「よろしゅうございました」


 嬉しそうだ。


 もっと騒ぐと思っていた。


「それだけ?」


「奥様、髪がひどいことになっています」


「今それ?」


「誰も忘れていないなら、今日からは普通の問題が大事です」


 セシリアは髪に触れた。


 確かにひどい。


 鏡を見る。


 泣いている。


「……どうして」


「知りません」


「あなた、少し冷たいわ」


「昨日まで十分心配しましたので」


 マルタも目が赤かった。


 セシリアは何も言わなかった。


 身支度をして、いつもの朝食室へ行く。


 そこで足が止まる。


 いつもの席にアレクシスがいる。


 いや。


 元夫がいる。


「おはよう」


 彼が言った。


「……おはようございます」


「覚えているか」


「はい」


「私もだ。だが私の番は明日の朝だから、リーゼは明日も検査すると言っている」


「明日もここで?」


「そのつもりだ」


 セシリアは頷いた。まず一日、越えられた。


 セシリアは席についた。


 目の前にパン。

 果物。

 卵。


 昨日と同じ。


 でも今日は、誰も昨日を忘れていない。


「昨日、私が言ったこと」


 セシリアが切り出す。


「覚えている」


「全部?」


「離婚したことも、君が愛していると言ったことも」


「そちらを並べます?」


「どちらも重要だろう」


「そうですけれど」


 顔が熱い。


 昨日は勢いで言えた。


 今日の方が恥ずかしい。


「あなたも一年半前から、と」


「ああ」


「本当に?」


「本当だ」


「なぜ私は気づかなかったのでしょう」


「私が言わなかったから」


「それだけ?」


「それがほぼ全部だ」


 アレクシスが上着から、小さな紙片を出した。


「最初に忘れた朝、引き出しの紙に貼りつけてあった」


 折り目だらけだった。点検のことや、妻を巻き込みたくないという言い分の後に、一行ある。


『私は妻を愛している』


「今まで持っていたのですか」


「見せる機会を逃した」


「たくさんありました」


「知っている」


 セシリアは紙を二度折り、そっと返した。

 今の自分には、昨日の声がある。紙を奪って確かめ続けなくてもよかった。


「セシリア」


「はい」


「今後のことだが」


 来た。


 セシリアは少し身構える。


 再婚。


 いつするのか。

 そもそもするのか。


 昨日は互いに愛していると確認した。


 なら。


「私は、君にここにいてほしい」


 セシリアは手を止めた。


「……はい」


「だが、父君と話したいこともあるだろう。帰国するなら、馬車と護衛を手配する」


 夫だった人は、そこで口を閉じた。


「もう手配しました?」


「まだだ」


「よかった」


「先に聞く。君はどうしたい」


 朝から真面目な顔で聞かれると、用意していた答えが少し揺れる。

 いてほしい、と言われた。それを聞いた上で決めてよいのだ。


「明日の検査で問題がなければ、一度、祖国へ帰ります」


「そうか」


 元夫の顔が少しだけ落ちた。


 分かりやすい。


 今まで気づかなかった自分もどうかと思う。


「ただし一か月ほど」


「一か月」


「父と話します。兄の胃の具合も確認します」


「それは大事だな」


「それから戻ります」


 アレクシスが顔を上げる。


「ここへ?」


「はい」


「なぜ」


 今度はセシリアが呆れた。


「そこまで言わせます?」


「聞いた方がいいと思った」


「急に学びを活用しないでください」


「難しいな」


「本当に」


 笑ってしまった。


 少しして、セシリアは言う。


「戻ってきたら」


「ああ」


「私たちは一度、普通に交際しましょう」


「普通に?」


「結婚する前にするものです」


「知識では知っている」


「では実践してください」


「何をすればいい」


「私に聞きます?」


「私は妻を口説いたことがない」


「元妻です」


「訂正する。元妻を口説いたことがない」


「私も元夫に口説かれたことはありません」


 二人で考える。


 これまで条約交渉や国家審問は何とかしたのに、恋人になる方法が分からない。


 セシリアはパンを一口食べた。


「まず」


「まず?」


「私を口説いてください」


 アレクシスの顔が固まった。


「具体的には?」


「それくらい自分で考えてください」


「難題だな」


「少なくとも、両国の議会の承認は要りません」


「君一人の承認の方が難しい気もする」


 真顔で言った。


 セシリアは笑った。


 笑った拍子に、目の端がまた濡れた。


 アレクシスが黙ってハンカチを差し出す。セシリアは受け取り、返さずに膝へ置いた。


「帰国の間、手紙をください」


「書く」


「業務連絡以外も」


 彼は少し困った顔をしたが、頷いた。

 今度は、その返事を帳面に書かなくてもよかった。


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