第34話 今日は、普通に忘れた
三か月後。
「これは口説いているのですか?」
セシリアが聞くと、アレクシスは露骨に嫌そうな顔をした。
「なぜ毎回確認する」
「判別が難しいので」
「花を贈った」
「公爵家の庭で咲いた余りでしょう」
「余りではない」
「食事にも誘った」
「以前から一緒に食べています」
「劇にも」
「途中で寝ましたね」
「内容が難しかった」
「喜劇でした」
「笑うところが分からなかった」
「そこは私も少し分かりませんでした」
二人は王都の小さな菓子店にいた。
公爵と元公爵夫人がいるには少し狭い。
セシリアが以前、城下で甘すぎる揚げ菓子を食べたと話したら、アレクシスが別の店を探してきた。
これも口説いているらしい。
三か月の間に、色々あった。
離婚の翌々朝も、アレクシスの記憶は失われなかった。リーゼの検査でも術の残りはなく、二人はようやく帰国の日程を決められた。
両国の共同調査は今も続いている。ヴァルターと術を仕込んだ魔術師は裁判に付され、穀倉で亡くなった人々の名も、遺族の了解を得て公表された。拘束された者の名簿を調べ直す仕事は、まだ終わらない。
バスティアンとエマの件も法務官へ渡った。処分はまだ決まっていないが、エマからは、当時助けた子供の一人と連絡が取れた、と手紙が来た。
セシリアは一度リデールへ戻った。
父とは三回喧嘩した。
一回目は隠蔽について。
二回目は父が「当時は他に方法がなかった」と言ったことについて。
三回目はセシリアが帰国予定を延ばさないと言ったことについて。
全部、完全には解決していない。
父は公の場で非公開措置の責任を認め、議会へ謝罪した。
でも「判断そのものは間違っていなかった」と今でも思っているらしい。
セシリアは納得していない。
帰る朝は、また訪ねるとだけ言った。父も止めなかった。納得したからではなく、次に話す余地を残したかった。
兄は本当に胃薬の瓶を机へ並べていた。
薬だけで済ませず医師に診てもらって、と言った。
『お前のせいで増えた分もある』
と言われたので、それ以上は言わなかった。
グランハルトへ戻ってからは、公爵邸の客室へ入った。
元自分の屋敷なのに客室である。
変な感じだった。
アレクシスは本当に口説こうとした。
最初の一週間はひどかった。
『今日は天候が良いので庭を歩きませんか』
業務連絡だった。
『君が以前欲しいと言っていた本を入手した』
贈り物というより納品だった。
『もし予定がなければ夕食を』
毎回、予定表まで添付されていた。
セシリアは三通目で言った。
『会いたいだけなら、そう書いてください』
返事。
『会いたかった。帰ってきたのだから、毎日誘っていいと思っていた』
思っていたより率直な返事だった。
セシリアはそれだけ、机の引き出しへしまった。業務連絡の束には戻さなかった。
最近は少しましになった。
「この菓子はどうだ」
アレクシスが聞く。
セシリアは一口食べる。
「甘いです」
「菓子だからな」
「前のものよりはまし」
「褒めているのか」
「かなり」
この会話も何度目だろう。
「それで」
アレクシスが急に姿勢を正した。
「何です?」
「今日はもう一つある」
小箱を出す。
セシリアは見る。
「指輪?」
「ああ」
「早くありません?」
アレクシスの顔が固まった。
「あ」
セシリアも気づく。
「違います。嫌という意味ではなく」
「三か月では短いか」
「二年結婚していたので計算が難しいですね」
「では二年三か月」
「離婚期間を引きます?」
「なぜ」
「別れていました」
「別れていたが、ほぼ毎日手紙を書いた」
「それは知っています」
二人で計算しようとして、やめた。
意味がない。
アレクシスが箱を開く。
以前の結婚指輪とは違う。
小さな青い石。
「今回は、条約も国境も関係ない」
「はい」
「王命でもない」
「はい」
「だから」
夫だった男が、珍しく言葉に詰まる。
セシリアは待った。
以前なら急かした。
今も少し急かしたい。
でも待つ。
「もう一度、私と結婚してほしい」
ようやく言った。
「私が決めていいのですね」
「ああ」
「断っても?」
アレクシスの顔がかなり嫌そうになる。
「……断る権利はある」
「嫌そう」
「嫌だからな」
「そこは正直ですね」
「君に正直に言えと言われた」
「では」
セシリアは指輪を見た。
少しだけ間を置く。
意地悪で。
「はい」
アレクシスが息を吐いた。
「今、わざと待っただろう」
「少し」
「性格が悪くなったな」
「結婚生活の影響でしょう」
「誰のせいだ」
「半分ずつということで」
それから一か月後、二人はもう一度結婚した。
新しい婚姻には和平担保の術を使わず、通常の届出と誓約だけを行った。リーゼにも、古い術へ接続しないことを確認してもらった。
今度の結婚式は、小さかった。
和平条約の書類は一枚もなかった。
軍楽隊もいない。
父と兄、国王夫妻、親しい友人と使用人。
リーゼは遅刻した。
マルタは泣いた後、泣いていないと言い張った。
アレクシスは誓いの言葉を一箇所噛んだ。
セシリアは笑った。
完璧ではなかった。
前の結婚式より、ずっとよかった。
翌朝。
第一鐘が鳴る。
セシリアは目を覚ました。
隣にアレクシスがいる。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨日、リーゼ殿は何時に来ました?」
「開式予定の十五分後だ。だから入場を待った」
「そんなに遅かった?」
「覚えていないのか」
アレクシスが体を起こす。
一瞬、本気で心配した顔。
セシリアは吹き出した。
「普通に忘れただけです」
「……脅かすな」
「式であなたが誓いの言葉を噛んだことは覚えています」
「それでも今のは心臓に悪い」
「ごめんなさい」
夫の顔を見て、セシリアは笑うのをやめた。
左手に触れると、アレクシスはようやく息を吐いた。
「ほかに気になるところは?」
「ありません。あなたが二度言い直した言葉も、覚えています」
「そこは一度でよかった」
今度は二人で笑った。
朝食後、セシリアは旧共同執務室へ行った。
今も二人で使っている。
棚の一番上に、古い革表紙の帳面があった。
共同記録。
もうほとんど開かない。
取って、最初の方をめくる。
自分の字。
夫の字。
食事量。
税関。
喧嘩。
舞踏会。
重要な私事あり。
読んでも思い出せない日がある。
戻らなかった昨日もある。
頁の端に、一行あった。
『明日は夫が忘れる日』
セシリアは指で文字をなぞった。
「何を見ている?」
後ろから声。
振り向く。
「昔の日記です」
「また読むのか」
「いいえ」
帳面を閉じる。
アレクシスが手に書類を持っている。
「朝食の後すぐ仕事です?」
「君も来ただろう」
「私は日記を見に」
「では戻るか」
「仕事は?」
「午後でもいい」
以前なら、そんなことを言う人ではなかった。
「どこへ?」
「庭でも歩くか」
「口説いています?」
「もう妻なのに必要か?」
「必要です」
「そうか」
アレクシスは少し考えた。
「では、君と歩きたい」
「合格です」
「厳しいな」
セシリアは古い共同記録を棚へ戻した。
戻らない日の頁も、書き間違いも、そのままにしてある。
二人で部屋を出る。
廊下へ出たところで、アレクシスが足を止めた。
「何です?」
「言い忘れた」
セシリアは待った。
「今日も、愛している」
「……朝食で聞きました」
「そうだったか」
「はい」
また普通に忘れたらしい。
セシリアは彼の手を取り、指を絡めた。
「でも、もう一度どうぞ」
「愛している」
「私もです」
今度は、返事を待たせなかった。




