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今日は夫が忘れる日  作者: 秋月 もみじ


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第32話 夫婦をやめる日

 朝。


 アレクシスは新和平条約の成立を覚えていなかった。


「……昨日、成立したのか」


「はい」


「私は署名した?」


「署名しました」


「何か失敗は」


「財務官と保証金の支払期日でもめました」


「それは失敗ではない」


「昼食後、あなたは十分ほど寝ました」


「なぜ書いた」


「私ではなく、あなたが自分で」


 共同記録に本当にある。


『午後三時十二分から約十分、休憩中に居眠り。セシリアの肩を借りた』


「肩まで貸したのか」


「貸しました。重かったです」


「起こせばよかった」


「本があと二頁だったので」


 二人で笑った。


 今日、夫婦をやめる。


 朝食は普通だった。


 パン。

 卵。

 果物。


 セシリアは卵を半分残した。


 アレクシスが見る。


「食べないのか」


「緊張しています」


「私もだ」


「あなたは完食しています」


「緊張すると腹が減る」


「便利ですね」


 午前十時。


 婚姻契約解除のため、小礼拝堂へ行く。


 結婚式をした大聖堂ではない。


 参列者も少ない。


 国王。

 リデール側の立会官。

 リーゼ。

 条約官。

 マルタ。


 それだけ。


 手続き書類は三枚。


 セシリアは思った。


 結婚時は二百枚以上署名した。


 終わらせる方が簡単らしい。


「最終確認です」


 条約官が言う。


「本婚姻の解除により、アレクシス・ヴァルハルト公爵とセシリア・リデール王女の法的婚姻関係は終了します」


「はい」


「和平条約上の婚姻担保は昨日付で新条約へ移行済み。国境結界への影響なし」


「はい」


「婚姻印を解除した時点で、記憶欠損術の流入経路も消失する見込みです。ただし、既に失われた記憶は復元しません」


「分かっています」


 条約官がアレクシスを見る。


「公爵閣下も?」


「ああ」


「では署名を」


 ペンが二本置かれる。


 セシリアは取ろうとして、止まった。


「少し待ってください」


 誰も急かさない。


 アレクシスがこちらを見る。


「怖いか」


「はい」


 以前なら否定した。


 今日は言えた。


「あなたは?」


「かなり」


「見えません」


「腹が減るくらいには」


 少し笑った。


 それから真面目に夫を見る。


「アレクシス様」


「何だ」


「一つ、言っておきたいことがあります」


「今?」


「今です」


 言葉を探す。


 外交文書なら何度も推敲する。


 今日は紙がない。


「私は」


 一度失敗する。


「……あなたとの結婚を、嫌だと思ったことはありません」


「それは」


「まだ終わっていません」


「すまない」


 夫が黙る。


「最初は仕事でした。和平のため。公爵夫人として必要なことをするだけでした」


「ああ」


「でも今は」


 喉が乾く。


「私はあなたを愛しています」


 言った。


 結婚して二年。


 離婚届へ署名する直前に、初めて言った。


 我ながら時期がおかしい。


 アレクシスはしばらく何も言わなかった。


「何か」


「考えている」


「遅いです」


「知っている」


 彼が息を吐く。


「愛している。先日言ったことも、今も同じだ」


 セシリアは瞬きをした。


「……先日は、いつからとは聞きませんでした」


「一年半くらい前からだ」


「……一年半?」


「たぶん」


「なぜ言わなかったのです」


「君に負担をかけると思った」


 セシリアの顔が固まる。


「今それを言います?」


「昔の話だ」


「一年半も、私が負担に思うと決めていたのですね」


「ああ。だから今は、言ってから君の返事を待つ」


 礼拝堂で国王が咳払いした。


 マルタは顔を覆っている。


 リーゼは明らかに笑っていた。


 セシリアは急に恥ずかしくなった。


「……後で話します」


「ああ」


 ペンを取る。


 署名。


 アレクシスも署名。


「印が消える時、痛むことがあります。強ければ言ってください」


 リーゼがそう断ってから、術式を起動する。


 左手首の婚姻印が熱を持った。


 痛い。


 思ったより痛い。


「痛いです」


「私もだ」


「思ったより痛いです」


「手を握っても?」


「早く」


 アレクシスの指にも力が入っていた。


 銀色の印が少しずつ薄くなる。


 最後に光って、消えた。


 それだけだった。


 鐘も鳴らない。

 花も降らない。


「終わりました」


 リーゼが言う。


「魔力経路、消失を確認」


 セシリアは左手首を見る。


 何もない。


 結婚した日からあったものが消えた。


 アレクシスも自分の手首を見ている。


「では」


 条約官が少し困った顔で言った。


「お二人は、ただいまをもって婚姻関係を終了されました」


 元夫と目が合う。


「……どうしましょう」


 セシリアが言う。


「何を」


「この後」


「昼食では?」


「そういう意味ではありません」


「分かっている」


 アレクシスが少し笑った。


「まず昼食にしよう。その後のことも、そこで話せる」


 差し出された手は、まだ少し熱かった。セシリアは取り直した。


 食後、解呪の経過を見る間は邸に滞在すると決めた。夜はこれまでどおり別々の寝室へ戻ったが、明日も朝食は一緒に取る約束をした。


 夜。


 セシリアは共同記録を開いた。


 もう、婚姻しているから続ける帳面ではない。

 それでも二人で決めたことが、今日もいくつかあった。


 空いている頁に書く。


『本日、婚姻契約解除』


 その下。


『呪いの流入停止を確認』


 さらに。


『互いに愛していることも確認』


 書いてから、少し恥ずかしくなる。


 明日の朝、第一鐘が鳴る。


 本来ならセシリアが今日を忘れる日だ。


 忘れるのか。


 忘れないのか。


 今夜は、たぶん眠れない。


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