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今日は夫が忘れる日  作者: 秋月 もみじ


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第31話 結婚ではなく条約を結ぶ

 朝、セシリアは共同記録を読んだ。


『ヴァルター・ハイネマン拘束』

『偽装作戦への関与を認める』

『記憶術発注命令書を確保』

『リデール国王の非公開措置も共同調査の対象に。夕刻、両国が調査開始を発表』


 冒頭の四行だった。

 続く頁には、証拠と証言の区別、公務に付いた条件、今後の公表手順まで書かれている。


 昨日、自分がその場にいたらしい。


 でも覚えていない。


「……勝ったのですね」


 言ってみる。


 言葉だけが浮いた。


 アレクシスは覚えている。


「勝った、でいいのかは分からない」


「共同記録にもそう書いてあります」


 最後に一行。


『勝った感じはしない』


 昨日の自分と今日の夫が同じことを言う。


「父は?」


「リデール国内で議会説明をすると連絡が来た」


「兄は?」


「胃薬が増えたらしい」


「誰がそんな情報を」


「夜明けの伝書術の追伸だ。正式な回答と一緒に来た」


 机に、連絡所の係官が書き取った通知がある。


 セシリアは少し笑った。


 笑っていい話なのか分からない。


 それでも笑った。


 共同声明が出た後、国境は実際に荒れた。


 戦争再開ではない。


 だが両国で抗議集会。

 リデール商会への石投げが二件。

 国境軍の一部が警戒態勢へ。


 ヴァルターの言ったことは、全部嘘ではなかった。


「だから隠すべきだった、とは思いません」


 セシリアが言う。


「私もだ」


「でも、何も起きない方が楽でした」


「ああ」


 そこは格好をつけなかった。


 新条約の交渉は、その朝からさらに四週間続いた。


 概要はすでに両国へ送ってあり、魔術師たちは新しい結界の試験も始めていた。それでも保証金と監査権限の折り合いがつかない。議会から差し戻されるたび、条約官と書記官が夜まで残った。

 その間にも二人は交互に忘れた。会議では担当書記の記録も照合し、前日に自分が言ったことを人前で読み直した。


 四週間後、両国の議会が修正案を承認した。王印の使用権限を持つ全権代表も揃った。

 最後の附属表を確定するため、王宮の大会議室へ集まる。今日、昨日を忘れたのはセシリアだった。


 従来の和平条約は、二人の婚姻を担保にしている。


 それを外す。


 代わりに、国家同士が責任を負う。


 共同監視委員会。

 国境から一定距離への重装兵器配備禁止。

 違反時の自動警告術式。

 双方の王印による魔術担保。王族個人の体ではなく、国庫から供給する魔力と供託金を担保にする。


 話は何度も止まった。


「リデール側の供託金だけ、一括払いになっています」


「貨幣の換算日は先月末で合意済みです」


「換算率ではなく、支払う日です。こちらにも分割を認めてください」


「初回の入金を減らすと、魔力供給費の下限に届きません」


「でしたら、その分を両国で先に納めては」


「今月は金がない」


 グランハルトの財務官が堂々と言い、会議室が静かになる。


 セシリアは頭を抱えたくなった。


 配分の原則と総額は議会の承認済みだったが、附属表の支払期日でまた止まった。午前で終わる予定が、昼を越えた。


 昼食を挟んでも終わらない。


 三時。


 四時。


 五時。


「婚姻担保へ戻した方が早いのでは」


 誰かが冗談半分に言った。


 セシリアは即答した。


「嫌です」


 アレクシスも同時に言う。


「駄目だ」


 会議室で少し笑いが起きた。


 七時前。


 初回分を両国の予備費から支出すると決まり、附属表が確定した。


 魔術師たちが、試験を終えた新しい結界へ条約を接続する準備を整えた。旧結界を動かしたまま、新結界を先に立ち上げる手順だった。


 最後の問題は、担保となる王印をどちらが先に押すかだった。


「同時でいいでしょう」


 セシリアが言う。


「術式上、一秒程度の差は問題ありません」


 リーゼが答える。


「なら同時で」


 両国代表が印章を持つ。


 三、二、一。


 押す。


 光が走った。


 以前はセシリアとアレクシスの婚姻印へ集まっていた魔力が、二つの王印へ流れる。


 手首が軽くなった。


 国境の各観測所から、新結界の稼働を知らせる短い通知が届く。最後の観測所の確認が取れてから、旧結界への接続を切った。


 完全に消えたわけではない。


 まだ婚姻契約は残っている。


 でも、国境の和平はもう二人の夫婦関係に依存していない。


「終わりました?」


 セシリアがリーゼへ聞く。


「条約移行は」


「では」


「明日、婚姻契約を解除できます」


 会議室が急に静かになったように感じた。


 アレクシスと目が合う。


 離婚。


 ずっと必要だった。


 できるようになった。


 なのに、嬉しくない。


「明日にします?」


 アレクシスが聞く。


「……はい」


 言ってから、セシリアは変な気持ちになった。


 結婚する日より、離婚する日の方が二人で相談して決めている。


 おかしな話だった。


 夜、共同記録へ今日のことを書く。


『新和平条約成立』


 その下。


『明日、婚姻契約を解除する』


 ペン先が止まる。


 明日は夫が今日を忘れる日だ。


 今日、二人で新しい和平を作ったことを、彼は明日の朝には覚えていない。


 そのことを、二人で覚えて朝を迎えたかった。


 でも、もうすぐ終わる。


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