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今日は夫が忘れる日  作者: 秋月 もみじ


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第30話 二人で一人分の証人

 翌朝、アレクシスは共同記録を読みながら顔をしかめた。


「昨日の君は転記を間違えたのか」


「はい」


「それを自分で全部書いた?」


「はい」


「偉いな」


「昨日も似たようなことを言われました」


「私は覚えていない」


「知っています」


 今日は夫が昨日を忘れている。


 昨日の審問。

 セシリアの失敗。

 老兵の手紙。


 全部、アレクシスにとっては記録だ。


「灰髪の若造」


 彼が呟く。


「十五年前のヴァルターは四十二歳です」


「若造か?」


「手紙の書き手は、当時六十だったそうです」


「あり得るな」


 王宮へ向かう前、リーゼから連絡が来た。


 国務院の魔術資材台帳が審問命令で開示されたという。


「記憶術に使える欠日石が、一個だけ出ています」


「いつ?」


「呪いが始まる九日前」


「申請者は?」


「国務卿秘書室」


 セシリアの心臓が速くなる。


「用途は?」


「古文書保存術の試験、と」


「嘘ですね」


「欠日石は保存には使いません」


「誰が受け取った?」


「秘書官ハインツ・ローデン」


 名前は知っている。


 ヴァルターの右腕として十年以上働いている男。


「証言します?」


「呼び出されています」


 審問二日目。


 廊下には昨日より多くの記者がいた。だが、事件に関する調査は非公開になった。

 議場に入れたのは審問官、両国代表、監査院の調査官と、呼び出された関係者だった。


 まず老兵の手紙と軍記録が照合された。


 十五年前、第五補給隊へ国務院から臨時監督官が派遣されていた。


 名前。


 ヴァルター・ハイネマン。


 議場がざわめく。


 ヴァルターは立った。


「否定いたしません」


 あっさりだった。


「戦時中、私は国務院から補給監査へ派遣されております。それ自体は正式な任務です」


「敵国旗については?」


「覚えておりません」


 セシリアはその答えに妙な気持ちになった。


 記憶を奪った疑いのある男が、「覚えていない」と言う。


 腹が立つ。


 次に、ハインツ秘書官が呼ばれた。


 四十代の痩せた男。


 顔色が悪い。


「欠日石を受け取ったのはあなたですね」


「はい」


「国務卿の命令で?」


 ハインツがヴァルターを見る。


 ヴァルターは見返さない。


「古文書試験のためです」


「欠日石は古文書保存に使えないと魔術院が証言しています」


「私は魔術師ではありませんので」


「では誰へ渡した?」


「……」


「記録では翌日、民間魔術師ルントの工房へ出ています」


 リーゼが資料を示す。


「昨夜、監査院が工房を保全しました。点検に使用した術具、婚姻術式の写し、秘書室からの受領書がありました。記録を照合中です」


 逃れていたルントも、工房へ戻ったところを確保されたという。術具には、夫妻の印に残っていた欠損術と同じ組み方が刻まれていた。


 ヴァルターが初めて口を挟んだ。


「秘書官が独断で行った可能性もあるでしょう」


 ハインツの顔が上がった。


 ほんの一瞬だった。


 でもセシリアは見た。


 傷ついた顔。


 長く仕えた人間に切られた顔だった。


「国務卿」


 ハインツが言った。


「私は、あなたの命令書を処分しておりません。今朝、原本を監査院へ提出しました」


 ヴァルターが彼を見る。


「何?」


「あなたは、終われば焼けと仰った」


 声が震えている。


「でも私は怖かった。王弟殿下へ術をかける命令を、自分一人の責任にされたらと思って」


 保管係が封印袋を運び、審問長の前で開けた。


 命令書にはヴァルターの私印がある。鑑定官が、過去の書簡の筆跡と印影に一致すると報告した。発注先と点検の日付も、工房の受領書に合う。


『対象の直近一日分の記憶のみを継続的に欠落させること。生命、人格、長期記憶へ損傷を与えてはならない』


 殺すつもりはなかった。


 それが文面からも分かる。


 だから許されるわけではない。


「目的は?」


 審問長がヴァルターへ聞く。


 長い沈黙の後、彼は座ったまま答えた。


「調査を止めるためです」


「十五年前の国境事件に関する調査を、ですか」


「そうです」


 審問長は、非公開指定を解除された報告書を開いた。昨夜、両国王の承認を得て、監査院へ届いたものだった。


 大停戦の二十三日前、グランハルト領にある国境の共同穀倉が襲われた。襲撃者はリデールの青旗を掲げていた。

 当時の発表では、停戦に反対するリデールの離反兵と、グランハルト側の内通者による共同犯行とされていた。


「襲撃したのは第五補給隊から選ばれた兵で、旗も国務院が用意した。報告書にはそうあります」


 ヴァルターは長く黙った。


「私は、その補給を承認しました」


「偽装だと知って?」


「知っていました。両国の強硬派を同時に排除しなければ、停戦交渉は潰されていた」


「穀倉には人がいた」


 セシリアは、報告書の死者名簿から顔を上げた。


「避難は済んだと聞いていました」


「それを確かめずに?」


 答えはなかった。


 偽装襲撃を口実に両国で拘束が行われ、交渉が進んだ。だが、殺された者も、関与のないまま捕らえられた者もいた。

 セシリアは名簿の次の頁をめくれなかった。


 父の署名を思う。


「リデール王は?」


 今度は自分から聞いた。


 ヴァルターがこちらを見る。


「作戦の偽装について、事前には知らせていません。臨時部隊には停戦使節の護送と説明しました。ラグナ商会から物資を買わせ、その荷に我々の装備を紛れ込ませた」


 胸の奥が少し緩む。


 次の言葉で、また締まる。


「事後には知った。だから互いに公表しないことで合意した」


 父が襲撃を命じた証拠は、今のところない。

 けれど、ヴァルターの言葉だけで安心するわけにはいかなかった。非公開措置を承認した署名は、父自身のものだ。


「なぜ今まで?」


「十五年、大規模な戦争には戻らずに済んだ」


 ヴァルターは静かだった。


「国境で子供が育ち、商人が行き来するようになった。小競り合いはあったが、全面戦争ならもっと死んでいた。私は自分の判断を正しかったと思っています」


「だからアレクシス様の記憶を奪った?」


「彼が公表すれば、十五年が無駄になると思った。最近になって補給監査の人名まで照会し始めたので、止めなければならなかった」


「私まで巻き込まれました」


「それは想定外でした。あなたを帰国させれば、調査を支える者もいなくなると思った」


 謝罪はなかった。


 セシリアはその方が少しよかった。


 形だけ謝られても困る。


 ヴァルターの身柄が拘束される。


 しかし審問はまだ終わらない。


 記憶障害者である二人の証言能力について、最後の確認があった。


「公爵閣下。昨日の審問について、ご自身の記憶はないのですね」


「ない」


「では、昨日どの資料が提出されたかを、ご自身の体験として証言することは」


「できない」


 アレクシスはそう言ってから、セシリアを見る。


「昨日は妻が覚えている」


 セシリアが立つ。


 昨日見たものを証言する。


 転記ミスも。

 老兵の手紙も。


「一昨日については?」


 審問長に聞かれ、セシリアが答える。


「私は覚えていません。夫が覚えています」


 アレクシスが立つ。


 一昨日の資料を証言する。


 その前日はセシリア。


 さらに前はアレクシス。


 二人の記憶は、歯抜けだ。


 でも互い違いに残っている。


 それだけに頼るわけにはいかない。


 だから共同記録、第三者証言、公文書を重ねる。


 一つずつ。


 完璧な証人はいない。


 完璧な記録もない。


 証言が食い違う箇所は残った。それでも、誰の確認が必要かは分けられた。

 審問長は、二人の公務を第三者の照合を付けて暫定的に認めた。単独での機密取扱いは控え、記憶が欠けた日は直接見たように証言しない。その条件には二人とも同意した。


 夕方、審問は終了した。


 廊下へ出たセシリアは壁にもたれた。


「疲れました」


「私もだ」


「あなた、昨日の緊張は覚えていないでしょう」


「代わりに今日の分がある」


「そうでした」


 勝った、という感じはしなかった。


 ヴァルターは拘束された。


 父の隠蔽も、両国の調査対象になった。

 夕刻には、拘束と調査開始について共同声明が出る。被害者や情報提供者の名は伏せ、作戦の詳しい経緯は裏づけを取ってから公表することになった。


 声明に先立ち、国王が承認した警備計画が動いた。国境の商会には輸送を続けるよう通知し、市場には軍とは別の警備隊を置く。苦情や被害の申立ても、両国共通の窓口で受け付ける。

 準備していても、何も起きないとは限らない。新聞は明日大騒ぎするだろう。


「これで終わりですか」


 セシリアが聞く。


「いや」


 アレクシスが答える。


「条約が残っている。それに、術者を捕らえても欠損術は契約の中で動き続けると、リーゼが確認した」


 そうだった。


 二人はまだ、離婚できない。


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