第29話 日記も間違える
審問の日。
セシリアは昨日を覚えていなかった。
朝一番に共同記録を読んだ。
『新聞で記憶障害が公表された』
『明日、臨時審問』
『怖いけれど、行く』
最後の一行で少し止まった。
「昨日の私は、こんなことを書いたのですね」
「書いた」
アレクシスは覚えている。
「消そうか迷っていました?」
「かなり」
「そうでしょうね」
今の自分には昨日の怖さがない。
代わりに、今日の怖さがある。
同じようで別物だった。
「行きましょう」
「ああ」
王宮の小議場には、予定より多くの人がいた。
議員。
官僚。
両国の外交官。
傍聴席には新聞記者までいる。
ヴァルターは前列に座っていた。
顔色はいつも通り。
最初の質問は予想通りだった。
「公爵夫人殿下。昨日の出来事を覚えておられますか」
「いいえ」
ざわめき。
隠しても仕方ない。
「では昨日、どなたと面会されたかも?」
「自分の記憶としてはありません。記録では知っています」
「それを『知っている』と言えるのでしょうか」
質問した議員は意地悪な顔をしていない。
本当に疑問なのだろう。
「例えば、殿下の共同記録に誤りがあった場合は?」
「訂正します」
「誤りだと誰が判断する?」
「他の記録、証言、当日の記憶を持つ者と照合します」
「つまり殿下だけでは判断できない」
「はい」
またざわめく。
アレクシスが横で動いた。
セシリアは見ない。
代わりに答えないと、昨夜約束したらしい。
「それを弱点と認めるのですか」
「弱点でないとは申しません」
議員が少し意外そうな顔をした。
「ですが、記憶に問題のない方でも一人で国家機密を扱わせるべきではないと思います」
小さな笑いが出る。
そこで午前の空気は少し緩んだ。
午後は、二人がどのように資料を確認しているかを審査することになった。
国境事件の記録を使うため、機密を含む部分では記者と一般傍聴人が退席した。両国の外交官と、呼ばれた証人だけが残る。
セシリアは一覧表を提出した。
「大停戦二十二日前。民間輸送車一台が第三税関を通過。旧第五補給隊の確認印あり」
「二十二日前?」
財務官が聞き返す。
「はい」
「提出資料では二十三日前になっていますが」
セシリアは止まった。
手元を見る。
自分の表は二十二日前。
原本の写しを確認する。
二十三日前。
「……私の転記ミスです」
一気に空気が変わった。
議場のあちこちで紙を走る音。
「殿下」
質問者の声が少し強くなる。
「まさに今、この場で記録の誤りが発見されたわけですな」
「はい」
「昨日を覚えていない殿下が作った資料を、我々はどこまで信用すべきなのでしょう」
痛い。
言い訳はできる。
表を作ったのは一昨日。今日はその作業を覚えている。
忘却とは関係ない。
書記官の確認も漏れた。
でも、それで何がよくなる。
「この一箇所は信用しないでください」
議場が静まった。
「何と?」
「私の転記ミスです。二十二日前ではなく二十三日前。訂正します」
「それだけで済む問題では」
「ですから、照合用の資料も提出しています」
セシリアは、エマの持参した原本を記録官が撮影し、照合印を押した写しを掲げた。
原本そのものは、議場の保管係が預かっている。
「私の記憶も、私の書いた表も、間違うことがあります。原本も改ざんされることがある。証人も勘違いする。ですから一つだけで判断しないでください」
自分で言いながら、以前の自分なら嫌った考えだと思う。
「間違いを認めれば信用が戻ると?」
「いいえ。戻すかどうかは皆様が判断してください」
そこで席へ戻った。
足が少し震えている。
アレクシスが机の下で手を差し出した。
握らない。
指先だけ一度触れた。
審問は悪い流れのまま続いた。
そこで審問長が、次の参考人を呼んだ。
白髪の老人が、待機席から立ち上がる。国境で話を聞いた元兵士だ。昨日届いた先触れの主だった。
あの時は「夜に馬車など通っていない」と言っていた。
「思い出した、とは言いません」
老人は、審問長に促されて前へ出た。
「王女様にそういう言い方をすると怒られそうだから」
少し笑いが起きた。
「家に戻って、亡くなった戦友の手紙を探しました。あの頃、第五補給隊に一週間だけ応援に行ったと書いてある」
「第五補給隊へ?」
「はい。それで思い出した気がしたんですが、気がしただけかもしれない。だから手紙を持ってきました」
老人が紙を差し出す。
十五年前のもの。
そこには確かに、第三税関近くで夜間輸送を手伝ったことが書かれている。
そして一行。
『国務院から来た灰髪の若造が、敵旗を汚すなとうるさい。青旗を積んだ車は橋詰めの穀倉へ向かった』
議場がざわつく。
十五年前。
灰髪。
国務院。
それだけではヴァルターと決まらない。
セシリアは彼を見た。
ヴァルターは初めて、ほんの少し目を細めた。
審問長が言う。
「本日はここまでとする。公務継続の判断は保留。国務院の出張記録と資材台帳を保全し、明日、照合結果を確認する」
ヴァルターが反対しかけたが、審問長は続けた。
「以後の機密調査は宮廷監査院へ付託する。関係者は王都を離れないように」
終わった。
勝っていない。
審問の要旨が公表されれば、セシリア自身の転記ミスだけが大きく扱われるかもしれない。
廊下へ出る。
アレクシスが横に来た。
「大丈夫か」
「大丈夫ではありません」
「そうか」
「でも明日も来ます」
「ああ」
今日のことを明日忘れるのは、アレクシスだ。
少し不公平だと思った。
「今日の私、かなり格好悪かったですね」
「そうでもない」
「間違えました」
「私なら三箇所くらい間違える」
「慰めになっていません」
「では一箇所で済んで偉い」
「もっと駄目です」
それでも少し笑った。
夜の共同記録には、転記ミスも隠さず書いた。
夫が差し出してくれた手のことは、書かずにいた。
「明日は、私がそちらに座ります」
アレクシスが顔を上げる。
「手が必要になったら、出してください」
「ああ」
それからしばらくして、帳面の横に手が置かれた。
「今でもいいか」
セシリアはペンを置いて、その手を取った。




