第26話 私は何を守りたいのか
朝、アレクシスは兄からの手紙を共同記録で知った。
「エドワルド殿下は胃薬を飲みすぎるのか」
「そこを記録したの?」
セシリアが帳面を奪う。
本当に書いてある。
『王太子エドワルドより私信。公表を急がぬよう要請。調査自体は止めず。胃薬を飲みすぎる傾向あり』
「最後は誰が?」
「君だろう」
「手紙を要約するついでに、そこまで書いたのでした。今朝読むと余計ですね」
「大事だと思ったのでは」
「削ります」
「残しておけ。平和になった時に本人へ見せる」
「兄に嫌われますよ」
「もう好かれてはいない」
「それはそうかもしれません」
二人で朝からどうでもいい話をした。
午後、セシリアは一人で城下へ出た。
護衛はいる。
アレクシスもついて来ると言ったが、断った。
「考えたいのです」
「一人で?」
「護衛はいます」
「そういう意味では」
「分かっています」
夫は少し不満そうだったが、止めなかった。
そこは進歩だと思う。
行き先までは決めていなかった。
父の書類と夫の告白が、机にいると交互に頭へ浮かぶ。どちらも大事なので、少し困っていた。
セシリアは市場を歩いた。国境から移り住んだ商人の多い一角だった。
グランハルトの硬い黒パン。
リデールの甘い梨ジャム。
両方を同じ店で売っている。
十五年前なら考えられなかったそうだ。
「奥様、こちら」
マルタが屋台を指す。
揚げ菓子。
「食べる?」
「奥様が」
「なぜ私」
「昨日から昼食が少ないので」
「アレクシス様の影響を受けていません?」
「公爵様より前から言っています」
買った。
熱い。
砂糖が多い。
「甘すぎます」
「全部食べてから言います?」
マルタが呆れる。
通りの向こうで、子供が二人遊んでいた。
一人がグランハルト語で何か言い、もう一人がリデール語で返す。
途中から二人とも変な混ざり方をして笑っている。
セシリアは足を止めた。
「何をしているのでしょう」
「石取り遊びでは?」
「言葉が」
「この辺りの子は両方喋りますよ」
知らなかった。
いや、資料では知っていた。
国境地区の二言語教育率、六十八パーセント。
数字で見た。
王都まで来ても、この子供たちは両方の言葉を使っている。
セシリアは、何を言って笑っているのか聞き取ろうとした。速すぎて半分しか分からなかった。
店先では、グランハルト人の男がリデール商人と値段でもめている。
「高い!」
「去年より輸送費が上がったんだから仕方ない!」
「和平になったら安くなるって言っただろう!」
「俺が言ったんじゃない!」
仲がいいのか悪いのか分からない。
でも商売は続いている。
十五年。
和平という言葉は大きすぎる。
条約。
国境結界。
王族の婚姻。
そういうものを守っているつもりだった。
実際に守りたいものは、もっと小さいのかもしれない。
梨ジャム。
混ざった言葉。
値段でもめる商人。
普通の日。
「マルタ」
「はい」
「戦争が再開したら、この市場はどうなります?」
「さあ」
侍女は簡単に答えなかった。
「閉まる店もあるでしょうね。逃げる人も」
「そうね」
「だから真実を隠します?」
「私に聞かれても困ります」
「そうよね」
「でも奥様」
「何?」
「どちらを選んでも、全員は喜ばないと思います」
セシリアはマルタを見る。
「急に難しいことを言うのね」
「屋台の店主に値切ったら断られたので、少し哲学的な気分です」
「何を買ったの?」
「靴下です」
やはり難しいことではなかった。
夕方、屋敷へ戻る。
アレクシスが共同執務室にいた。
「どうだった」
「揚げ菓子が甘かったです」
「それだけ?」
「子供が二か国語で遊んでいました。商人は値段でもめていました」
「それは平和だな」
セシリアは少し笑った。
「私もそう思いました」
机へ座る。
「私は和平というものを、条約だと思っていたのかもしれません」
「違う?」
「条約も必要です。でも」
うまく言葉が出ない。
「市場が普通に開くことも、たぶん和平です」
アレクシスは頷いた。
「では、それを守る方法を考えよう」
「はい」
夜、共同記録に市場で見たことを書いた。
明日の自分が読み直しても、あの子供たちの声は戻らない。だから、笑いながら石を取り合っていたことも残した。
『国境の普通の日を守りたい』
そこまで書いて、窓辺で書類を読んでいる夫を見る。
「今度は一緒に行きます?」
「市場へ?」
「揚げ菓子は甘すぎたので、別の店がいいです」
アレクシスは手帳を開いた。
今度はその頁に、セシリアも覗き込んだ。




