第21話 平和は真実より脆い
セシリアは朝、父の印章をもう一度見た。
正確には、昨日の自分が見つけた父の印章だった。
今日は昨日を忘れている。
共同記録には事実だけが並んでいる。
『父王の承認による臨時部隊設置文書を確認』
『大停戦後、国境事件報告を父王が非公開指定』
その下に、消した跡がある。
「私は何を書こうとしたのでしょう」
「知らない」
アレクシスが答える。
「見ていなかったのですか」
「見ない方がいいと思った」
「珍しいですね」
「何が」
「あなたが、何を書いたのか聞かずにいてくれたこと」
「見てほしかったのか?」
「分かりません。昨日の私が決めたことなので」
昨日の自分がどう傷ついたのか、セシリアには分からない。
父の署名を見ても、今日は紙の上の事実としてしか感じられなかった。
それが救いなのか、嫌なのかも分からない。
午後、国務卿の先触れが来た。
国務卿ヴァルターからの招待状。
『国境調査について、共有すべき事項あり』
セシリアは紙を裏返した。
「早いですね」
「何が」
「私たちが何を見つけたか、知っているような書き方です」
「そうだな」
「行きます?」
「君は?」
問い返されて、一瞬止まる。
「行きます」
「では私も」
以前ならアレクシスが先に決めただろう。
小さい変化だった。
ヴァルターは国境庁舎の応接室で待っていた。
「調査でお疲れのところ、恐縮です」
「国務卿も王都から?」
「別件で近くまで」
嘘かもしれない。
でも、それだけでは責められない。
茶が出る。
ヴァルターは一口も飲まず、本題へ入った。
「十五年前の国境事件を調べておられるとか」
セシリアは夫を見る。
アレクシスもこちらを見る。
「どこでお知りに?」
「古い機密文書をこれだけ動かせば、国務院にも照会が来ます」
自然な説明だった。
「それで?」
「おやめになった方がよい」
ヴァルターは静かに言った。
セシリアは少し拍子抜けした。
もっと遠回しに来ると思っていた。
「理由を伺っても?」
「和平が壊れるからです」
「随分大きく出ますね」
「大げさではありません」
ヴァルターは窓の外へ目を向けた。
「十五年前、両国とも疲弊していました。国境の町は焼け、兵は足りず、食糧もなかった。それでも国民は相手を憎んでいた」
「知っています」
「いいえ、殿下は当時九歳です」
少し腹が立つ。
だが事実でもある。
「私はここにいました」
ヴァルターは続ける。
「和平に反対する兵士を拘束した。停戦後も敵国の商人を殴り殺す者がいた。条約締結の日にも、城門の外で石が投げられた」
「だから真実を隠していいと?」
「真実にも時期があります」
「便利な考え方ですね」
「便利だから国は使うのです」
ヴァルターは笑わなかった。
「殿下のお父上も」
そこだけ、胸の奥が動いた。
昨日の感情が戻ったわけではない。
でも嫌だった。
「何をご存じです」
「陛下は賢明な方です」
「答えになっていません」
「国境事件を公表しなかった。それが答えです」
アレクシスが口を開く。
「何の事件だ」
「その報告は今も両国の機密です。ここで話せば、あなた方にも黙っていただかなくてはならない」
「私の記憶に術をかけたのはあなたか」
セシリアが夫を見る。
急だ。
ヴァルターの表情はほとんど動かなかった。
「証拠がおありですか」
「ない」
「でしたら、王弟殿下ともあろう方が軽率です」
「否定しないのか」
「証明できない疑いに付き合う義務はありません」
やりにくい相手だ。
悪人らしく怒ってくれれば楽なのに。
「一つだけ」
ヴァルターがセシリアを見る。
「調査を止められるなら、記憶障害を止める方法が見つかる可能性があります」
部屋が静まった。
「知っているのですね」
「可能性の話です」
「誰から聞いたのです」
「それもお答えできない」
アレクシスが立ちかける。
セシリアは机の下で彼の袖を掴んだ。
夫が止まる。
「今日は帰ります」
セシリアが言った。
「セシリア」
「帰ります」
ヴァルターへ頭を下げる。
「お話は理解しました」
「賢明なご判断を」
外へ出た。
アレクシスは歩きながら言う。
「なぜ止めた」
「証拠がないからです」
「奴は知っている」
「私もそう思います」
「なら」
「今拘束して、誰に何の罪を説明するのです?」
夫が黙る。
「それと」
「何だ」
「私、少し考えたいです」
「調査を止めるのか」
「分かりません」
自分でも驚く答えだった。
以前なら即座に「止めない」と言っただろう。
でもヴァルターの言葉の一部は正しい。
真実を出した結果、国境で人が死んだら。
父が隠した理由も、同じだったら。
「今夜は決めません」
「……分かった」
宿へ戻る。
共同記録には、ヴァルターとの会話をできる限り正確に書いた。
最後にセシリアは一行追加する。
『調査継続について、保留』
ペン先が止まった。
保留。
自分がその文字を書くとは思わなかった。




