第20話 父の印章
朝、アレクシスは昨日を忘れた。
共同記録を読んだ後も、一昨日の頁から指を離さない。
「まだ何か?」
セシリアが聞く。
「昨日の君は、私がキスしたことを覚えていなかったんだな」
「今も覚えていません。一昨日の分は、あなたが覚えている日です」
「ああ」
「その前の日、私からした方は覚えています」
「私はそちらがない」
二人とも一つは覚えている。けれど、同じキスを思い出して話せるわけではない。
「あなたからのは、どうでした?」
「……何と答えればいいんだ」
「正確に」
夫が目を逸らした。
「君が、離れた後も袖を掴んでいた」
セシリアは自分の手を見た。
「それは、離れたくなかったのでしょうね」
「今の君に聞いてもいいか」
「仕事の後なら」
先に逃げたのはセシリアだった。夫は今夜の予定を確かめ始めた。
午前、リデールから機密解除の仮許可が届いた。
父王本人ではなく、王太子である兄の署名。
伝書術で連絡所へ届いた許可を受け、封印保管されていた写しが運び込まれた。伝書術で送れるのは短い通知だけなので、資料そのものはこうして受け取る。
ただし閲覧できるのは一部のみ。
セシリアは封を切った。
十五年前、大停戦前の軍需記録。
ラグナ商会。
薬草。
染料。
そして、存在しないはずの輸送隊。
「この部隊番号」
アレクシスが指す。
「リデール軍のものです」
「実在した?」
「いいえ」
セシリアは軍制表を覚えている。
「少なくとも正規軍にはありません」
次の紙。
臨時部隊設置許可。
署名欄。
セシリアの手が止まった。
赤い王印。
父のものだった。
「……」
アレクシスが何も言わない。
それが余計に嫌だった。
「父が作った部隊?」
「文書だけ見れば」
「目的欄が消されています」
「後から黒塗りされたようだ」
さらに読む。
部隊は大停戦の二十六日前に設置。
十日後に解散。
兵員名簿なし。
任務内容なし。
支払い先の一部にラグナ商会。
セシリアは椅子へ座り直した。
「父が」
言葉が続かない。
父王は厳しい人だ。
優しい父親ではない。
でも、戦争を終わらせた人だとセシリアは思っている。
敵国との婚姻を娘へ命じた人でもある。
それでも国を守るためだったと理解してきた。
「まだ何も決まっていない」
アレクシスが言う。
「慰めています?」
「事実を言っている」
「なら結構です」
午後、さらに一枚。
今度は大停戦から半年後の文書だった。
『国境事件調査報告書の非公開措置』
非公開理由。
『和平交渉への重大な影響を考慮』
承認者。
リデール国王。
父の署名。
こちらは明確だった。
「事件を起こしたかは分からない」
セシリアが言う。
「でも、何かを知って隠した」
アレクシスは答えない。
「言ってください」
「何を」
「あなたならどう思うか」
「夫として?」
「調査相手として」
「なら、隠蔽だと思う」
胸が痛む。
でもそれを聞きたかった。
「はい」
「ただ、何を隠したかはまだ分からない」
「分かっています」
セシリアは文書を閉じた。
しばらく仕事が手につかなかった。
窓の外を見る。
何も面白くない景色だった。
倉庫の屋根。
馬を洗っている兵士。
干された布。
「今日は休むか」
アレクシスが言う。
「休みません」
「だろうと思った」
「なら聞かないでください」
「一応聞く」
少しして、机の端に茶が置かれた。
夫が自分で持ってきたらしい。
「侍女を呼べば」
「今いない」
「そうですか」
飲む。
少しぬるい。
「ぬるいです」
「悪かったな」
「でも飲みます」
それ以上、父の話はしなかった。
夜の共同記録。
セシリアは事実だけを書く。
『父王の承認による臨時部隊設置文書を確認』
『大停戦後、国境事件報告を父王が非公開指定』
最後に何か書きかけて消した。
アレクシスは見なかったふりをした。
紙には消した跡だけが残った。




