第19話 味方の国も白くない
翌朝。
セシリアは共同記録を開いて、しばらく閉じた。
もう一度開く。
『本日、互いの意思を確認してキス』
「……」
向かいにアレクシスがいる。
今日は彼が覚えている。
自分だけが覚えていない。
「何か言ってください」
セシリアが言う。
「何を」
「何でも」
「おはよう」
「今さら?」
「何を言えば正解なんだ」
「私にも分かりません」
二人とも困った。
一昨日、自分からしたキスは覚えている。
昨日は夫からだったらしい。その一番知りたいところだけがない。
「……嫌ではなかったのですよね」
聞く。
アレクシスの顔が少し真面目になった。
「ああ」
「本当に?」
「昨日の君より確認が多いな」
「私は覚えていないので」
「嫌ではない。むしろ」
「むしろ?」
夫は黙った。
「そこで止めるのですか」
「仕事をしよう」
「逃げましたね」
「逃げた」
認めるなら許されると思っているらしい。
午前は運送会社の記録をさらに追った。
三十枚ほどめくったところで、ようやく仕事に集中できた。
アレクシスも、さっきから同じ頁を読んでいるわけではなさそうだった。
公爵の軍務資料に、民間運送会社の精算書が挟まっていた。経費の請求に添えられたもので、リデール側の商会への支払いが記載されている。
「私の国?」
セシリアが紙を取る。
「商会名は?」
「ラグナ商会」
「聞いたことがあります。戦時中、染料と薬草を扱っていた」
「軍とも?」
「おそらく」
リデール大使館の国境連絡所へ照会した。
ここには通商契約の控えが置かれている。午後、記録係が回答を持ってきた。
ラグナ商会は戦争末期、王国軍の物資調達契約を持っていた。
問題の三十日間にも複数の軍用荷が動いている。
だが詳細は「機密指定のため閲覧不可」。
セシリアは紙を見た。
「十五年前の物資記録がまだ機密?」
「普通ではないな」
「解除申請を出します」
「本国へ?」
「はい」
「父王の許可が要る」
「だから出します」
アレクシスが少し迷う。
「何です?」
「いや」
「言ってください」
「君は平気なのか」
「何が?」
「自分の国を疑うことが」
セシリアはすぐ答えられなかった。
平気ではない。
自分はリデール王女だ。
父を尊敬している。
兄とも仲は悪くない。
戦争中、自国にもひどいことがあったのは知っている。
しかし「こちらが被害者だった」という話を多く聞いて育った。
「平気ではありません」
正直に言う。
「でも、私が平気かどうかで記録は変わりません」
「そうだな」
「ただ」
「ただ?」
「間違いであってほしいとは思っています」
アレクシスは何も言わなかった。
慰めもしない。
それがありがたかった。
夕方、リデール側の古い戦況図を開く。
老女が見たという青い旗は、今回の三十日間とは別の時期の話だった。その証言を十五年前の裏づけには使えない。
今追えるのは、ラグナ商会と民間運送会社の支払いだ。
「この二社なら、国境を越えて運べますね」
セシリアが通商路を指す。
「正規の商業路を使えばな」
アレクシスが別の図を重ねた。グランハルト側の軍路だ。第三税関から分かれ、国境の穀倉へつながっている。
「こちらなら、軍用車に移し替えずに運べる」
「積荷に軍の符号を使いながら、車は民間のものにした」
「軍の仕事だと見られたくなかったのかもしれない」
青い旗の話を思い出す。旗があればその国の軍だと、自分もすぐ考えた。
「荷車だけでなく、旗も偽装できますね」
「そうだな。だが、今回は旗を見たという証言はまだない」
「車だけでは、何を運んだかも分からないのですね」
「積荷の明細が要る」
「だから機密を解いてもらうしかない」
セシリアは少し腹が立った。
誰に対してか分からない。
その直後、連絡所から追加で届いた契約概要に、別の支払いが見つかった。積荷の明細は伏せられているが、支払元は読めた。
リデール軍務院からラグナ商会への支払い。
同じ時期。
今度は自国側だ。
「……どちらも怪しいですね」
「そうなる」
セシリアは椅子の背へもたれた。
「片方だけなら楽だったのに」
「何が」
「あなたの国だけが悪ければ、私は怒ればいい。私の国だけなら、あなたに謝ればいい」
「君が謝る必要はない」
「分かっています。でも気持ちの話です」
夫が少し驚いた顔をする。
「何です?」
「君が『気持ちの話』と言った」
「私も言います」
「最近増えた」
「誰のせいでしょうね」
アレクシスは返事をしなかった。
夜。
共同記録へ書く。
『リデール側ラグナ商会にも不自然な軍用支出あり。両国関与の可能性』
セシリアは最後に少し迷って、キスの件には触れなかった。
昨日の自分がしたこと。
今日の自分にはまだ少し遠い。
でも、夫を見ると嫌ではない。
そのくらいの曖昧さでいい気がした。




