第18話 知らないキス
アレクシスは朝食より先に共同記録を開いた。
そして最後で止まった。
『重要な私事あり』
「何だ、これは」
向かいのセシリアは紅茶を飲んだ。
「昨日の私たちが書いたものです」
「それは見れば分かる」
「では問題ありませんね」
「問題しかない」
今日は夫が昨日を忘れている。
つまり、キスも忘れた。
セシリアは覚えている。
自分からしたことまで全部。
朝起きた瞬間から後悔していた。
忘れるのは夫なのだから、書かなければ黙っていられた。
なのに『重要な私事あり』などと残した。
昨日の自分は何を考えていたのだろう。
自分だが。
「セシリア」
「はい」
「何があった」
「仕事には関係ありません」
「重要と書いてある」
「私事です」
「私にも関係する?」
「……します」
「では知りたい」
真っ当だった。
セシリアはカップを置く。
「昨日、私たちは」
「うん」
「その」
言えない。
こういう時、外交文書なら楽だ。
事実だけ書けばいい。
『両国は互いの主権を尊重する』
『関税率を三パーセント引き下げる』
キスをした、も事実のはずなのに、口にするのは難しい。
「……接触がありました」
アレクシスが眉を寄せる。
「接触」
「はい」
「喧嘩?」
「違います」
「転んだ?」
「違います」
「手を」
「キスです」
言った。
アレクシスが止まった。
セシリアは顔を逸らす。
「以上です」
「以上?」
「他に何が?」
「……どちらから」
「必要です?」
「かなり」
「私です」
今度は夫が顔を背けた。
耳が赤い。
昨日も同じだった。
思わず笑いそうになる。
「何だ」
「いいえ」
「昨日の私は何をした」
「固まっていました」
「情けないな」
「その後、ちゃんと喋りました」
「何を?」
「忘れました」
「君は覚えているだろう」
「今だけ便利に忘れました」
アレクシスがため息をつく。
朝食が冷める。
誰も手をつけない。
「……嫌ではなかったのか」
夫が聞く。
「私からしたと言いました」
「それでも」
「嫌ならしません」
「そうか」
また沈黙。
セシリアはパンを切った。
切りすぎて小さくなった。
「アレクシス様」
「何だ」
「あなたは昨日のことを、知りたいのですね」
「知りたい」
「記録で?」
「……それしかないなら」
答えを聞いて、胸が少し痛んだ。
自分には昨日のキスがある。
夫には説明しかない。
同じ出来事なのに、片方には思い出で、片方には報告書だ。
不公平だ。
「では」
セシリアは立った。
「今日もう一度します?」
「何を」
「分かっていますよね」
アレクシスが完全に固まった。
「君は」
「はい」
「時々、思い切りが良すぎる」
「嫌ですか」
「嫌ではない」
「なら問題ありません」
「問題はある」
「何です?」
夫は少し考えた。
「私からでは駄目か」
セシリアは黙った。
「嫌なら」
「嫌ではありません」
声が上ずった。もう少し落ち着いて返事をするつもりだったのに。
アレクシスが立つ。
今度はゆっくりだった。
セシリアが避けないことを確認するように近づく。
触れた唇は昨日より少し長かった。
離れた後、二人とも何も言わない。
使用人が入ってこなくて本当によかった。
「……記録します?」
セシリアが聞く。
「する」
「即答ですね」
「明日の君が今日を忘れる」
そうだった。
明日は自分が、このキスを忘れる。
さっきまで夫を気の毒に思っていたのに、今度は自分の番だ。
嫌だ。
はっきりそう思った。
夜、共同記録へアレクシスが書いた。
『朝、昨日の重要な私事について確認』
その下。
『同じことを本日もう一度行った』
「何です、この書き方」
「君が恥ずかしがると思った」
「余計に怪しいです」
「では『キス』と書く」
「待ってください」
「どちらだ」
結局、二人で相談して書いた。
『本日、互いの意思を確認してキス』
「契約書みたいですね」
「君が書くと何でもそうなる」
「あなたの案よりましです」
セシリアはその一行を何度も見た。
明日の自分は、これを読んでも思い出せない。
「明日の私が、どんな感じだったか聞いたら?」
「説明する」
「上手にできます?」
アレクシスは少し黙った。
「今日のうちに、もう一度確かめてもいいか」
セシリアはペンを置いた。
帳面も閉じた。




