第17話 記録していいですか
翌朝、セシリアは共同記録の最後にある一文を見つけた。
『昨日よりは話になった』
「誰が?」
「私だろう」
アレクシスが答える。
「随分偉そうですね、昨日の私は」
「今日もあまり変わらない」
「昨日のことを覚えている人が言わないでください」
今日はセシリアが昨日を忘れている。
大喧嘩をしたのは一昨日だから覚えている。
昨日、少し仲直りしたらしいことだけ記憶にない。
変な状態だった。
怒った理由は覚えている。
でも、怒りの続きだけが切れている。
共同記録には、アレクシスが「嫌われるのが怖かった」と言ったことまで書かれていた。
そこは本人が書いたらしい。
「これ、本当に言ったのですか」
「言った」
「あなたが?」
「私が」
「熱でも?」
「正常だった」
セシリアは夫を見る。
こうして正面から聞くと、言われた本人より恥ずかしい気がする。
「忘れてよかったかもしれません」
「ひどいな」
「気まずいです」
「言った側も十分気まずい」
「覚えているのですから、自業自得でしょう」
「そうかもしれない」
午前は四箱の資料整理。
会話は思ったより普通だった。
昨日、二人の間で何かが少し変わったらしい。
セシリアはそれを記録でしか知らない。
でもアレクシスは覚えている。
そのせいか、以前より近いところにいる。
書類を渡す時も。
茶を取る時も。
ほんの少し。
気のせいかもしれない程度。
「セシリア」
「はい」
「逆だ」
「何が?」
「それ、十五年前ではなく十四年前の箱」
手元を見る。
本当に違う。
「……今のは忘却と関係ありません」
「何も言っていない」
「顔が言っています」
「今日はよく間違えるな、と」
「言いましたね」
午後、セシリアは休憩のため廊下へ出た。
アレクシスもついてくる。
「なぜ来るのです?」
「私も休憩だ」
「偶然?」
「……そういうことにしてくれ」
「嫌です」
二人で中庭へ出た。
秋の風が冷たい。
セシリアはベンチへ座る。
夫も隣へ座った。
少し距離がある。
その距離が今までより妙に意識される。
「昨日」
セシリアから切り出した。
「何だ」
「私は何か言いました?」
「色々」
「共同記録に書いていないこと」
アレクシスは考えた。
「君は、私が何でも一人で決めるところが嫌いだと言った」
「それは覚えている一昨日にも言いました」
「ああ」
「他は?」
「……君も同じではないかと、私から聞いた」
「私が?」
「相手のためだと思うと、相手に聞かずに自分が我慢する」
セシリアは口を閉じた。
「私は何と答えました?」
「違う、と」
「なら違います」
「その後、少し考えていた」
「考えただけです」
夫が笑った。
「何がおかしいのです」
「昨日も同じ顔をしていた」
その言葉が不意に胸へ引っかかった。
昨日も。
自分にはない昨日を、夫が持っている。
嫌だと思っていた。
でも今は、少しだけ安心する。
「アレクシス様」
「何だ」
「私が忘れた日のことを、あなたが覚えているのは」
言葉を探す。
「……悪くないですね」
夫がこちらを見る。
「急だな」
「今思いました」
「そうか」
「それだけ?」
「他に何と」
「いえ」
期待した自分が馬鹿だった。
立ち上がろうとする。
その時、手首を掴まれた。
強くはない。
「セシリア」
「はい」
「私は逆も悪くないと思っている」
夫の声が少し低い。
「私が忘れた日のことを、君が覚えているのは」
「……そうですか」
「それだけ?」
言い返された。
腹が立つ。
でも手を振りほどく気にはならなかった。
目が合う。
何か言わなければと思う。
思うのに、まともな言葉が出ない。
だからセシリアは、考えるのをやめた。
少し身を寄せる。
アレクシスが固まった。
「キスしても、いいですか」
アレクシスは驚いたまま、それでも頷いた。
掴んでいた手首を放し、セシリアの手を取り直す。
そこまでされると、引っ込みがつかなかった。
セシリアは唇を重ねた。
短い。
自分からしたくせに、すぐ離れた。
「……」
「……」
アレクシスが何も言わない。
「何か言ってください」
「今、考えている」
「遅いです」
「君が急すぎる」
耳が赤い。
それを見て少しだけ安心した。
夜。
共同記録を書く段階になって問題が起きた。
「これ」
セシリアはペンを持ったまま言う。
「書きます?」
「何を」
「分かっていますよね」
「……キスを?」
「声に出さないでください」
「書くかどうか聞いたのは君だ」
明日はアレクシスが今日を忘れる。
書かなければ、彼は知らない。
書けば、朝一番に自分の字でキスしたと知らされる。
どちらも嫌だ。
セシリアはしばらく悩んだ。
そして『その他』へ書いた。
『重要な私事あり』
アレクシスが横から見る。
「分からないだろう」
「あなたが聞けば説明します」
「明日の私は聞くのか?」
「知りません」
「もう少し書いてくれ」
「嫌です」
アレクシスはペンを借り、すぐ下に書いた。
『朝食の前に必ず聞く。仕事の話へ逃げないこと』
「誰に言っているのです」
「明日の私に」
セシリアはその行を消したかった。
けれど、本当に聞かれなかったら困るので、帳面を閉じるだけにした。




