第2話 夫が残した紙
アレクシスは、自分の字が嫌いだった。
読みにくい。
速く書けばさらにひどい。
軍務にいた頃など、伝令が一度「北門」を「北馬」と読み違えたことがある。
伝令が出発前に聞き返したので、部隊を違う門へ向かわせずに済んだ。それ以来、重要書類だけは丁寧に書くようにしていた。
だから机の上の紙は、間違いなく自分が急いで書いたものだった。
『これを読んで昨夜を思い出せないなら、婚姻印を調べろ。点検を受けてからおかしい』
字が汚い。
しかも説明が足りない。
机には、昨日の日付の点検票もあった。和平担保術式の二年ごとの点検。国務院の認証を受けた魔術師が、午後に婚姻印を調べている。
異常なし、の欄に自分の署名がある。
余白には別の筆圧で、夜半に印が熱を持ち始めた、とあった。昨夜の自分も原因までは突き止めていなかったらしい。
「自分で自分を殴りたいな」
「何か仰いました?」
向かいで魔術師への使いを手配していたセシリアが振り向く。
「いや」
「そうですか」
それ以上聞かない。
妻はそういう人だった。
聞かない代わりに、聞いたことはよく覚えている。
日付も、時刻も、誰がどういう言い方をしたかも。
それを知っているから、今日のことを申し訳なく思う。
結婚二周年の夕食。
彼女がどんな顔をしていたのか、アレクシスには分からない。
自分が何を言ったのかも。
「庭を歩いたと言っていたな」
「はい」
「何を話した?」
セシリアは一瞬だけ迷った。
「たいしたことではありません」
「そうか」
たいしたことではないのに、答えない。
気になったが、追及する資格があるのか分からない。
忘れたのはこちらだ。
セシリアが部屋を出た後、アレクシスはもう一度紙を手に取った。
何か妙だった。
折り目が二重になっている。
広げる。
裏返す。
何もない。
いや、右下が少し厚い。
紙の端を爪で起こすと、もう一枚、薄い紙片が貼りつけてあった。
「……何をしているんだ、昨日の私は」
独り言が増えている。
剥がす。
そこには三行あった。
『セシリアには言うな。巻き込みたくない』
『点検の件は認証を確かめろ。妻に余計な心配をさせたなら謝れ』
最後の一行だけ、少し間が空いていた。
『私は妻を愛している』
アレクシスは紙を伏せた。
それから、もう一度見た。
字は自分のものだ。
「……知っている」
誰もいない部屋で呟く。
それは昨日初めて知った事実ではない。
いつから、とは言いにくい。
一年半前。
いや、その前から少し怪しかった。
政略結婚だった。
リデール王国の第二王女と、グランハルト王国の王弟。
両国が和平の証明として並べた二人。
結婚式で初めて手を取った時、セシリアの指が冷たかった。
アレクシスは、当然だと思った。
敵国だった場所へ嫁がされるのだ。喜べという方がおかしい。
だからせめて、夫まで負担にはなるまいと決めた。
部屋は別。
予定は先に確認。
不要な接触はしない。
彼女の祖国との文通を制限しない。
自分としては気を遣ったつもりだった。
一年ほど経ってから、マルタに言われた。
『公爵様は、奥様を客人だと思っておられるのですか』
違う、と答えた。
『でしたら、客人より話しかけないのはどうかと思います』
何も言えなかった。
その程度には、夫婦関係が下手だった。
それでもセシリアは黙って公爵夫人の仕事をした。
国境交易の税率表を三日で整理した。
農産物の検疫規則を両国語で作った。
アレクシスが熱を出した時には、医師へ症状を正確に伝えた。
そのくせ自分が風邪をひくと隠す。
アレクシスが気づいて薬を持っていくと、真顔で言った。
『よくお気づきになりましたね』
普通は気づくだろうと思った。
けれど、その時の彼女は少し嬉しそうだった。
あの辺りから駄目だった気がする。
好きになった。
だから言わなかった。
自分でも、そこは筋が通っていないと思う。
セシリアは和平のために結婚した。
選べなかった。
その夫が後から「愛している」と言い出したら、彼女はどうするのか。
責任感の強い人だ。
嫌でも応えようとするかもしれない。
それが嫌だった。
「……だから、言うなと書いたのか」
昨日の自分へ呆れる。
巻き込みたくない。
その一文も気になる。
何に?
何を知った?
昨日の記憶は空っぽだった。
机を探す。
軍務報告、領地報告、国境税関の写し。
昨日の日付のものが三つある。
一つは穀物価格。
一つは橋の補修費。
一つは戦時中の軍費照会。
軍費照会の書類には、昨日の点検前に開封したと受領印がある。
中には古い輸送費一覧。
赤鉛筆で一行だけ丸がついている。
見覚えがない。
「公爵様」
扉の外から声。
慌てて紙片を折った。
妙に慌てた自分が腹立たしい。
「入れ」
セシリアが戻ってきた。
「リーゼ殿が一時間ほどで到着するそうです。医師は先にこちらへ。点検票もお渡しします」
「ああ」
「それと、昨夜のことですが」
心臓が変な音を立てた。
「何だ」
「あなたは来年も二人で祝えればいいと仰いました」
「……私が?」
「はい」
セシリアは窓の方を見た。
「ですので、一応お伝えしておきます。たいしたことではないと言いましたが、私には少し、たいしたことでした」
アレクシスは返事を探した。
いい言葉が出てこない。
結局、出たのはひどく平凡なものだった。
「そうか」
妻の眉がほんの少し下がる。
失敗した。
分かっているのに、次が出ない。
「……来年も祝いたい」
やっと言う。
セシリアがこちらを見た。
「昨日を覚えていなくても?」
「ああ」
それは簡単だった。
昨日を忘れても、そこは変わらない。
「それなら、今度は予定表へ書いてください」
「来年の分を?」
「私事でも」
アレクシスは手帳の翌年の頁を開いた。
結婚記念日。セシリアと夕食。
その日には他の予定を入れないよう、大きく囲む。
妻が覗き込んできたので、机の下の紙片は握ったままにした。あちらの一行を見せる勇気は、まだなかった。




