第1話 今日は夫が忘れる日
結婚して二年になる夫が、昨夜のことを忘れていた。
最初に気づいたのは、朝食の席だった。
「昨日の葡萄酒、少し甘すぎましたね」
セシリアがそう言うと、向かいに座るアレクシスはパンを切る手を止めた。
「葡萄酒?」
「はい。夕食で出たものです」
「……昨日、君と夕食を?」
冗談を言う人ではない。
それだけは、結婚して二年も経てば分かる。
セシリアはナイフを皿へ置いた。
「結婚二周年でしたので」
言ってから、少し嫌な気持ちになった。
説明しなければ思い出してもらえない記念日というのは、ずいぶん惨めなものだ。
昨夜は珍しく二人きりだった。
国境公爵であるアレクシスには仕事が多い。和平の証として隣国から嫁いだセシリアにも、宴席や書類仕事がそれなりにある。
秋の評議期間は二人とも王都の公爵邸に滞在している。それでも、食卓を二人だけで囲むのは月に数回あるかどうかだった。
だから昨夜、夫が仕事を切り上げて戻ってきたことには驚いた。
『二年だな』
『そうですね』
『……早かったか?』
『公爵閣下にとっては?』
『質問に質問で返された』
そんな、どうでもいい会話をした。
どうでもいいのに、セシリアは寝る前に一度思い出した。
食後、庭を少し歩いた。
夫はいつもより口数が多かった。といっても、普段が十なら十五くらいだ。
別れ際には、彼の手がセシリアの髪へ伸びた。
触れる寸前で止まり、結局、何もなかった。
あれを覚えていないのか。
「セシリア」
呼ばれて顔を上げる。
夫は笑っていなかった。
「すまない。からかっているわけではない」
「では、本当に?」
「昨日の朝、第一鐘の前に起きたところまでは覚えている。昼の会議は……いや、あれは一昨日だ」
彼は眉間を押さえた。
「昨日の第一鐘から、今朝の鐘までがない。いつ着替えたのかも分からない」
セシリアは黙った。
何を言えばいいのか分からなかったので、卓上のものを数えた。
皿が四枚。カップが二つ。銀の匙が三本。
菓子用が二本あるのに、紅茶用は夫の側にしかない。
三本。
「一本足りませんね」
「何が?」
「匙です」
「……今、それが重要か?」
「重要ではありません」
自分でも分かっている。
分かっているので余計に腹が立った。
「昨夜のことを忘れたと言われて、何を言えばよいのか分からないだけです」
アレクシスが口を閉じた。
そういうところだ。
彼は困ると黙る。
セシリアは困ると数字を見る。
あまり相性のいい夫婦ではないのかもしれない。
「昨夜、何かありましたか」
「何か、とは」
「私が忘れたくなるようなことをしたとか」
「私が知るわけがないでしょう」
声が少し強くなった。
夫の眉が動く。
「そうだな。すまない」
謝られると、今度は自分が意地悪をしたような気分になる。
これも腹立たしい。
「医師を呼びます」
「魔術師も頼む」
「はい」
そこで会話を終えようとして、セシリアはふと気づいた。
アレクシスは左手を何度も握ったり開いたりしている。
「手が痛むのですか」
「いや」
「では、なぜ」
「婚姻印が熱い」
セシリアは反射的に自分の左手首へ触れた。
結婚時、和平条約とともに刻まれた薄い銀色の紋。
今は何も感じない。
「いつからです?」
「分からない。昨日を覚えていないからな」
夫がそう答えた瞬間、部屋が妙に静かになった。
笑えない。
アレクシスは立ち上がった。
「執務室へ行く。昨夜の予定を確認したい」
「私も行きます」
「君は朝食を」
「食欲がなくなりました」
「半分も食べていない」
「よく見ていますね」
「……いつもそのくらいは見ている」
それだけ言って彼は先に歩いた。
セシリアは一拍遅れて席を立った。
こんな時に限って、変なことを言う。
執務室は寝室棟の反対側にある。
扉を開けると、机の上はいつもと同じだった。書類の束。封蝋。インク壺。端に積まれた軍務報告。
アレクシスは手帳を開いた。
「昨日、午後六時以降は何も予定がない」
「私との夕食を書かなかったのですね」
「私事だからだ」
「なるほど」
「責めているのか?」
「いいえ。事実を確認しました」
自分でも少し責めていると思う。
その時だった。
アレクシスが机の一番下の引き出しを見た。
そして止まった。
「どうしました?」
「鍵が開いている」
「普段は?」
「閉める」
彼が引き出しを開けた。
中には折り畳まれた紙が一枚だけ入っていた。
アレクシスが紙を広げる。
見慣れた字だった。
角ばっていて、最後の払いだけ妙に長い。
夫自身の筆跡だ。
『これを読んで昨夜を思い出せないなら、婚姻印を調べろ。点検を受けてからおかしい』
それだけ。
セシリアは二度読んだ。
「昨夜、ご自分で書いたのですね」
「そうらしい」
「何か起きると分かっていた」
「……らしいな」
アレクシスは紙を持ったまま、椅子へ座った。
顔色が悪い。
それを見たら、腹を立てている場合ではなくなった。
「アレクシス様」
結婚して二年。
名前で呼ぶことは少ない。
彼が顔を上げる。
「私は昨夜、あなたと夕食をとりました。庭も歩きました。何もおかしなことはありませんでした」
「そうか」
「ですから、ひとまず今日はそれで十分です」
自分でも変な慰めだと思った。
けれど夫は、ほんの少し肩の力を抜いた。
「ああ」
紙を机へ置く。
「……私は、本当に昨夜を覚えていない」
その言葉だけが、妙に重かった。
セシリアは、机の上に置かれた夫の左手へ触れた。
昨夜、髪に触れようとして止まった手だった。
「昨日も、こうすればよかったですね」
アレクシスは意味を尋ねなかった。
ただ、握り返すまでに少し時間がかかった。




