第12話 帳簿を切った男
バスティアン・ノールは、逃げなかった。
家を訪ねると庭で豆の筋を取っていた。
「公爵様に王女様か。えらい人が二人も来るような家じゃないんだがね」
六十を少し過ぎた、小柄な男だった。
セシリアは挨拶の後、単刀直入に聞いた。
「第三税関の通行簿から三十日分を切り取ったのはあなたですか」
アレクシスが横でこちらを見る。
早すぎる、と顔に書いてある。
今日は彼が昨日を忘れている日だ。
昨日の証言集めについては共同記録で知っている。
バスティアンは豆を一つ籠へ落とした。
「そうだよ」
今度はセシリアが黙る番だった。
「……認めるのですか」
「今さら隠しても仕方ない」
「なぜ?」
「中で話そうか」
家の中は狭かった。
古い時計と、家族写真が何枚か。
バスティアンは茶を出そうとしたが、アレクシスが断った。
「話だけでいい」
「そうかい」
老人は椅子へ座った。
「娘のためだ」
「娘さん?」
「あの頃、娘は十九だった。税関の炊事場で働いてた」
戦争末期。
国境近くでは負傷者と難民が溢れていた。
敵国であるリデール側の村が焼け、子供たちが森を越えて第三税関へ来た。
「正式に通せば捕虜扱いだった。送り返すって話もあった」
「当時の規則ではそうです」
セシリアが言う。
両国の戦時規則を、嫁いだ後に読み比べたことがある。子供だから通してよい、とはどちらにも書かれていなかった。
「娘が嫌だと言った。子供だけでも向こうへ逃がすって」
「向こう?」
「グランハルトの内地だよ。教会が引き取るって話をつけてた」
敵国の子供を、敵国軍の目を盗んで自国側へ逃がす。
ややこしい。
人間は国境線ほどきれいに分かれない。
「あなたは手伝った」
「ああ。通行簿を書き換えた。荷車を何台か、羊毛運搬ってことにした」
「三十日分すべて?」
「娘がどの日に動いたか分からなくするために、まとめて抜いた。集計表も細目を減らした」
セシリアは目を閉じたくなった。
「……証拠隠滅ですね」
「そうだな」
「公文書の破棄です」
「それもそうだ」
バスティアンは平然としていた。
「後悔は?」
「帳簿を切ったことはある。子供を逃がしたことはない」
答えが早い。
セシリアは困った。
悪人なら楽だった。
「その子供たちは?」
「生きてるのもいる。死んだのもいるだろう。十五年だからな」
「娘さんは?」
「隣町にいる。子供が三人」
アレクシスが聞いた。
「誰かに命じられたのではないのか」
「誰に?」
「国務院。軍。貴族」
バスティアンは笑った。
「そんな立派な話じゃない。娘に泣かれただけだ」
「本当に?」
「疑うのが仕事なら好きに疑いな」
少し険悪になる。
セシリアは写真立てを見た。
若い女性と三人の子供。
誰かを守るために規則を破る。
最近、身近にもそういう男がいる。
ちらりと夫を見る。
「何だ」
「別に」
バスティアンは立ち上がり、古い戸棚から封筒を出した。
「全部捨てたわけじゃない」
中には数枚の写しがあった。
「なぜ残したのです?」
「俺が死んだ後で誰かが気づいたら、娘一人の仕業にされる。俺の字が残っていれば、言い逃れできないだろう」
「原本も?」
「何枚かは娘に渡した。残りは怖くなって焼いた。こっちの写しには、子供を乗せた車を特定できる印は付けてない」
「娘さんに確認したいです」
「手紙を書く。本人が来るかどうかは、あいつが決める」
写しは古い税関用紙で、残っている帳簿と筆跡も似ていた。真偽は照合が必要だった。
通行記録。
荷車番号。
積荷。
セシリアの心臓が少し速くなる。
これで何か分かるかもしれない。
その期待は、十分後にはかなり萎んだ。
写しの大半は羊毛、麦、塩、薪。
子供を逃がしたらしい荷車も、どれか分からない。
「何もないですね」
「悪かったな」
「いえ、あなたに怒っているわけでは」
「少し怒ってる顔だ」
アレクシスが横から言う。
「黙っていてください」
「昨日の共同記録に、君は証拠が見つかると期待していたと書いてある」
「余計なことまで書いていますね」
「君が書いた」
その通りなので腹が立つ。
写しの枚数と状態を控え、預かり証を渡して家を出た。
バスティアンは庭へ戻り、また豆の筋を取り始めた。
振り返りもしない。
「少なくとも、軍費の不正を隠すために切ったわけではなさそうですね」
セシリアが言う。
「今のところは」
「まだ疑うの?」
「職業病だ」
「公爵は職業ではありません」
「元軍人だ」
「そちらですか」
宿への帰り道、セシリアは写しを何度も見た。
三十日分の欠落。
大きな陰謀の入り口だと思った。
実際には、父親が娘を守るため帳簿を切った。
それだけかもしれない。
「がっかりしているな」
「していません」
「している」
「……少し」
認めた。
「でも、何もないと分かったのも一つの結果です」
「そうだな」
その時、アレクシスが一枚の写しを取り上げた。
「この番号」
「何?」
「軍用車ではない」
「民間の運送番号です」
「ああ。だが積荷欄が軍用符号になっている」
セシリアは見る。
確かに変だった。
大発見というほどではない。
たった一行。
けれど今日初めて、別の糸が一本だけ出てきた。




