余計な一言
新しい現場へ来てから、一週間が過ぎた。
恐れていたようなことは何も起きなかった。
生徒たちは廊下を汚し、ゴミを捨て、教師へ悪態をついていたが、清掃員の私には興味を示さなかった。
誰にも相手にされないことが、ここではありがたかった。
その日、私は昼休みの廊下をモップで拭いていた。
すると、四人の女子生徒が笑いながら近づいてきた。
全員が携帯電話を持っていた。
「いた。掃除のおじさん」
一人が私を指さした。
それを見て、ほかの三人が笑った。
私は視線を床へ落とし、聞こえないふりをしてモップを動かし続けた。
「ねえ、おじさん」
返事をしなかった。
「耳も掃除してもらった方がいいんじゃない?」
また笑い声が起きた。
一人が私の正面へ回り込み、携帯電話のカメラを向けてきた。
「一緒にTikTok撮ろうよ」
「申し訳ありません。仕事中ですので」
「仕事って、掃除じゃん」
「少しくらいサボっても誰も困らなくない?」
「それとも、おじさんが掃除しないと学校潰れちゃうの?」
四人が顔を見合わせて笑った。
私はモップを動かそうとしたが、女子生徒の一人が柄をつかんだ。
「これ持って踊ればいいじゃん」
「モップダンス。絶対バズる」
「踊ってみてよ」
彼女は私の手からモップを取り上げようとした。
私は抵抗せず、柄から手を離した。
奪い合いになって何かを壊せば、私の責任にされるかもしれない。
女子生徒はモップをマイクのように持ち、腰を振った。
ほかの三人が笑いながら撮影した。
「はい、次おじさん」
モップを押しつけられた。
「私にはできません」
「できるかどうかじゃなくて、やるの」
「音に合わせて動くだけじゃん」
「その体なら、揺れてるだけでも面白いって」
彼女たちは私の腹を見て笑った。
「顔もそのままでいいよ。無表情の方がウケるから」
「タイトルどうする?」
「人生終わった清掃員、踊らせてみた」
「それ絶対伸びる!」
自分たちで言って、自分たちで笑っていた。
私はその場を離れようとした。
だが、一人が廊下の右側を塞ぎ、もう一人が左側へ立った。
「どこ行くの?」
「まだ撮ってないんだけど」
「女子高生と踊れる機会なんて、もう一生ないよ?」
「むしろ感謝してほしいくらいなんだけど」
一人が音楽を流し始めた。
残りの三人は私を囲み、わざと大げさに踊ってみせた。
携帯電話のカメラは、ずっと私へ向けられていた。
「ほら、おじさんも!」
「手をこうして!」
「違う、もっと必死に!」
「できなさすぎ。今まで何して生きてきたの?」
私は何度も断った。
そのたびに、彼女たちは別の言葉で誘ってきた。
一緒に踊ろう。
少しだけ。
簡単だから。
恥ずかしがらなくていい。
そう言いながら、誰一人として私を仲間に入れようとはしていなかった。
彼女たちが欲しいのは、ぎこちなく踊る中年男の映像だった。
皆で見て笑い、知らない誰かにも笑わせるための映像だ。
「申し訳ありません。仕事がありますので」
私は頭を下げ、もう一度その場を離れようとした。
「真面目すぎでしょ」
「だから、そんな歳で清掃員なんじゃない?」
「人生つまらなそう」
「奥さんとかいないの?」
「いるわけないじゃん」
笑い声が耳の奥へ突き刺さった。
私は黙っていればよかった。
いつものように謝り、彼女たちが飽きるまで耐えればよかった。
次に問題を起こせば、清掃会社もクビになる。
それは分かっていた。
だが、彼女たちの笑い声を聞いているうちに、昔の教室を思い出した。
走るのが遅いと笑われたこと。
告白したことを言いふらされたこと。
何をしても、面白い見世物にされたこと。
五十六歳になった今も、私は同じ場所に立っていた。
私はモップを強く握った。
そして、言ってしまった。
「こんな馬鹿みたいなことをしていないで、少しは勉強をした方がいい」
笑い声が止まった。
口にした直後、後悔した。
「……は?」
最初に声をかけてきた女子生徒が、携帯電話を下ろした。
「今、馬鹿って言った?」
「皆さんを馬鹿だと言ったわけではありません。ただ、将来のことを考えるなら、こういう動画を撮るより勉強した方が……」
「何それ。説教?」
「自分は頭いいみたいな言い方してんじゃん」
「掃除のおじさんのくせに?」
私は何も言えなかった。
彼女たちは、私が東京大学を卒業したことを知らない。
説明したところで、信じてもらえるとも思えなかった。
「もう行こう」
女子生徒たちは、私をにらみながら立ち去った。
廊下の角を曲がる直前、一人が振り返った。
「今の、彼氏に言うから」
私は、その言葉の意味を深く考えなかった。
女子生徒に嫌われただけだと思っていた。
だが、彼女の彼氏は、校内でも特に恐れられている不良グループの一人だった。
教師でさえ、なるべく関わろうとしない生徒だった。
その日の放課後。
彼女は彼氏の隣に座り、昼休みにあったことを話していた。
ただし、私が言った内容とは少し違っていた。
「新しく来た清掃員に、馬鹿って言われた」
男子生徒の表情が変わった。
「誰だよ、そいつ」
一週間、誰にも気づかれずに働いてきた私の存在が――
とうとう、知られてしまった。




