女子高生とお泊まり②
こうして私は、十分に考える時間もないまま、武藤さんを家に泊めることになってしまった。
「先生、お腹すいた」
「さっきも聞いたよ、もう少し待って」
「戦ったから、いつもよりすいてる」
武藤さんは当然のように、小さなテーブルの前へ座った。
私は冷蔵庫を開ける。
中にあるのは、卵と豆腐、それから昨日買った半額の総菜だけだった。
「何か食べたいものはある?」
「焼き肉」
「冷蔵庫の中を見てから言ってくれる?」
「じゃあ、カレー」
「ないね」
「ラーメンは?」
「カップ麺ならあるよ」
「それでいい」
私は二人分の湯を沸かした。
その間に救急箱を取り出し、テーブルに置く。
「食べる前に、傷を見せて」
「これくらい平気だよ」
「口から血が出てる人が言っても、説得力がないよ」
武藤さんは自分の口元を指で触った。
赤い血が指先につく。
「本当だ」
「気づいてなかったの?」
「戦ってるときは痛くなかったから」
「後から一気に痛くなるやつじゃないかな」
消毒液を染み込ませたガーゼを、切れた口元へ当てる。
「痛っ」
「動かないで」
「先生、下手!」
「人の手当てなんて、ほとんどしたことがないんだよ」
「もっと優しくやって」
「わかった!」
武藤さんの腕や脇腹にも、いくつか痣ができていた。
三角絞めを決めるまでに、柴崎から何度も攻撃を受けている。
本人が言うほど、軽い怪我には見えなかった。
「明日、痛みがひどかったら病院へ行った方がいいよ」
「先生もね」
「俺は頬を殴られただけだから」
「見せて」
「自分でできるよ」
「頬は見えないでしょ?」
今度は私が手当てをされる番になった。
武藤さんがガーゼを、腫れた頬へ押し当てる。
「痛い、痛い」
「先生、動かないで」
「武藤さんより乱暴じゃない?」
「先生が大げさなんだよ」
「さっき優しくしてと言ってなかった?」
「私は怪我人だから」
「俺も怪我人だよ」
そんな何でもないやり取りが、少し楽しかった。
誰かに傷の手当てをしてもらう。
くだらないことで言い合う。
それだけのことが、私にはひどく新鮮だった。
手当てが終わる頃には、カップ麺が出来上がっていた。
二人で小さなテーブルを挟み、麺をすすった。
「先生、卵入れていい?」
「一人一個までね」
「二個入れたい」
「明日の朝の分がなくなるよ」
「また買えばいいじゃん」
「卵も高いんだよ」
「先生、ケチ…」
「生活するには、こういう細かさが必要なんだよ」
武藤さんは不満そうにしながらも、卵を一個だけ入れた。
その姿を見て、私は思わず笑ってしまった。
「何?」
「いや、別に」
「変な先生」
いつも一人で使っている小さなテーブル。
向かい側に誰かが座り、好き勝手なことを言っている。
たったそれだけで、いつもの部屋が少し明るく感じられた。
もし、私にも子供がいたら。
毎日の食卓は、こんな感じだったのだろうか。
くだらないことで言い合い、食べるものを分け合い、今日あったことを聞く。
五十六歳の私に高校生の娘がいても、おかしくはない。
順調に人生を歩んでいれば、今頃は妻がいて、武藤さんと同じくらいの年齢の子供がいたかもしれない。
だが、現実の私は独身だ。
妻もいなければ、子供もいない。
向かい側に座っている武藤さんも、私の娘ではない。他人だ。
黒田派に狙われたため、今夜だけ家に泊めることになった生徒だ。
明日になれば、この食卓はまた一人分に戻る。
そう思った瞬間、先ほどまで楽しかったはずの会話が、急に遠いものに感じられた。
「先生?」
「何?」
「麺、伸びるよ」
「ああ……そうだね」
「どうしたの?」
「何でもないよ」
私は残っていた麺を口へ運んだ。
少し伸びた麺は、先ほどより味が薄く感じられた。
◇
食事を終えると、私は押し入れから布団を出した。
一組しかない。
「武藤さんは、ここを使って」
「先生は?」
「台所の横に毛布を敷いて寝るよ」
「そこ、狭くない?」
「人一人が横になるくらいなら大丈夫だよ」
「一緒に布団を使えばいいじゃん」
「駄目に決まってるだろ」
「どうして?」
「どうしてでもだよ」
「先生、顔赤いよ?」
「さっき殴られたからだよ」
私は布団を寝室に敷き、台所との間にある引き戸を閉めた。
これなら、完全に別の部屋になる。
「先生、お風呂は?」
「今日は怪我をしてるから、シャワーだけにした方がいいんじゃないかな」
「着替えがない」
当然だった。
泊まる予定などなかったのだから、武藤さんは制服しか持っていない。
「私のジャージでよければ貸すよ」
「先生の?」
「嫌なら制服のまま寝ることになるけど」
「借りる」
私は押し入れの奥から、紺色のジャージを取り出した。
武藤さんに渡すと、上下を広げて確認する。
「大きい」
「俺のだからね」
武藤さんがシャワーを浴びている間、私は台所の床を片づけ、毛布を敷いた。
しばらくして、武藤さんが私のジャージ姿で戻ってきた。
袖も裾も余っている。
「先生、これ動きにくい」
「寝るだけなんだから、動きやすさは必要ないよ」
「黒田派が来たら戦わないといけないでしょ?」
「今夜くらい来ないことを祈ろう」
私もシャワーを済ませ、部屋の明かりを消した。
武藤さんは布団に入り、私は台所に敷いた毛布の上へ横になる。
「先生」
引き戸の向こうから声がした。
「何?」
「鍵、閉めた?」
「閉めたよ。チェーンもかけた」
「窓は?」
「そっちも閉まってるよ」
「本当に?」
「確認したから大丈夫」
「そっか」
少し間が空いた。
「先生」
「今度は何?」
「今日はありがとう」
「俺は何もしてないよ」
「泊めてくれた」
私は返事に困った。
「……どういたしまして」
引き戸の向こうから、やがて小さな寝息が聞こえてきた。
武藤さんはもう眠ったらしい。
私は硬い床の上で目を閉じた。
誰かが同じ家にいる。
一人ではない。
それだけで安心する自分がいる。
だが、同時に分かっていた。
これは家族ではない。
今夜限りの、偶然の時間だ。
明日になれば、またいつもの一人きりの生活に戻る。
胸の奥に残ったわずかな寂しさを抱えながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。




