お泊まり①
柴崎が気を失ったのを確認すると、私たちは急いで学校を出た。
警察や救急車を呼ぶべきか迷ったが、武藤さんは必要ないと言った。
「あれくらいじゃ死なないよ」
「そういう問題なのかな……」
「誰かが見つけるでしょ」
振り返ると、夜の校舎は静まり返っていた。
柴崎は一人だった。
だが、黒田派の仲間が近くにいないとは限らない。
私たちは周囲を警戒しながら、学校の駐車場へ向かった。
殴られた頬が痛い。
隣を歩く武藤さんも、足を少し引きずっていた。
駐輪場へ着くと、武藤さんは停めていたバイクの前で足を止めた。
「武藤さん、その怪我で運転できるの?」
「これくらい平気だよ」
「さっきから何度も聞いているけど、全然平気には見えないよ」
「先生の方がひどい顔してる」
「俺は一発しか殴られてないから」
「不意打ちでまともに受けてたじゃん」
「思い出させないでくれる?」
武藤さんは黒いフルフェイスヘルメットをかぶり、バイクにまたがった。
予備のヘルメットを渡され、私は後ろへ乗る。
「先生、ちゃんとつかまっててね」
「うん」
エンジンがかかり、静かな駐輪場に低い音が響いた。
バイクは夜の校門を抜け、私の家へ向かって走り出した。
走行中、私は何度も後ろを振り返った。
暗い道路に、こちらを追ってくる車やバイクは見当たらない。
それでも不安は消えなかった。
黒田派の下っ端を五人倒しただけでも報復されたのだ。
今度は幹部の柴崎を倒した。
黒田派がこれで諦めるとは思えない。
信号でバイクが止まったとき、武藤さんがこちらを振り返った。
「先生」
「何?」
「今日、先生の家に泊まっていい?」
「えっ?」
突然の申し出に、私は聞き返した。
「先生の家に泊まる」
「今から?」
「うん」
「泊まるって……朝まで?」
「泊まるんだから、そうでしょ?」
信号が青に変わる。
武藤さんは前を向き、再びバイクを発進させた。
私は返事もできないまま、後部座席で困惑していた。
私は返事もできないまま、後部座席で困惑していた。
女子高校生が、私の家に泊まる。
しかも、相手は武藤さんだ。
この前まで私の家で勉強していたとはいえ、その日のうちに帰るのと、朝まで泊まるのとでは意味がまるで違う。
近所の人に見られたら、何と思われるだろう。
学校に知られたらどうなる。
そもそも私は五十六歳で、武藤さんは高校生だ。
事情を説明して、誰か納得してくれるのだろうか。
「いや、ちょっと待って」
走行中の武藤さんに声をかける。
「何?」
「泊まるっていう話だけど……」
「聞こえない!」
エンジン音と風に声をかき消された。
「だから、武藤さんが私の家に泊まるのは、いろいろ問題があるんじゃないかな!」
「先生、声大きいよ!」
「大きくしろって言ったのは武藤さんだろ!」
信号待ちをしていた隣の車から、運転手がこちらを見ていた。
私は慌てて顔を伏せた。
もう誤解され始めている気がする。
信号が青になり、バイクは再び走り出した。
「それに、親御さんだって心配するでしょ!」
私は前へ身を乗り出し、大声で伝えた。
武藤さんから返事はなかった。
聞こえなかったのだろうか。
「武藤さんの親御さんに、ちゃんと連絡しないと――」
「いないよ」
武藤さんの声が、風の中から聞こえた。
「え?」
「私、親いないから」
私は何も言えなくなった。
詳しい事情は分からない。
いつからいないのか。
今は誰と暮らしているのか。
聞きたいことはいくつも浮かんだ。
だが、今ここで尋ねていいことではない気がした。
「……ごめん」
「先生が謝ることじゃないよ」
武藤さんは前を向いたまま、普段と変わらない声で答えた。
それ以上、会話は続かなかった。
エンジン音だけが、夜道に響いている。
私は自分の発言を後悔した。
事情も知らず、親御さんが心配すると決めつけてしまった。
武藤さんの帰る家には、彼女を待っている人がいない。
それを知ってしまうと、なおさら一人で帰らせにくくなった。
「先生」
「何?」
「泊まっていい?」
もう一度聞かれた。
「それは……」
断るべきだ。
大人としては、そう答えるのが正しいのだろう。
だが、安全のためには一緒にいた方がいい。
武藤さんは柴崎との戦いで怪我をしている。
黒田派が、今夜のうちに次の人間を送り込んでくる可能性もあった。
それに、私が一人で襲われたら、どうすることもできない。
考えれば考えるほど、何が正しいのか分からなくなってきた。
そうこうしているうちに、バイクは見覚えのある角を曲がった。
「あれ?」
私のアパートが見えてきた。
「武藤さん、もう着くよ」
「うん。知ってる」
バイクはアパートの前で止まった。
武藤さんはエンジンを切り、何事もなかったように降りる。
私も後部座席から降りた。
「じゃあ、少し話し合おうか」
「寒いから、中で話そう」
「中に入ったら、そのまま泊まる流れにならない?」
「ならないよ」
「本当に?」
「たぶん」
「また、たぶんって言ったね」
武藤さんはバイクに鍵をかけ、私の返事を待たずにアパートの階段を上り始めた。
「先生、早く鍵を開けて」
「まだ泊めるとは言ってないんだけど」
「ここで話してたら、近所の人に見られるよ」
ちょうどそのとき、隣の部屋の扉が開く音がした。
「ちょっと、こっちへ」
私は反射的に武藤さんの背中を押し、急いで自分の部屋の鍵を開けた。
二人で中へ入り、すぐに扉を閉める。
私は鍵をかけ、チェーンまでつないだ。
危なかった。
近所の人には見られていないはずだ。
振り返ると、武藤さんはすでに靴を脱いでいた。
「先生、お腹すいた」
「待って。話し合いは?」
「何の?」
「泊まるかどうかの話だよ」
「もう家に入ったよ?」
「話し合うために入ったんだよ」
「今から私を追い出すの?」
「そういう言い方をされると、俺が悪い人みたいじゃないか」
「違うの?」
「違うよ」
武藤さんが、私の顔をじっと見つめる。
「先生、私がいた方が安全だよ」
「それはそうかもしれないけど……」
「先生も、一人で黒田派に襲われたら困るでしょ?」
情けないが、そのとおりだった。
柴崎に襲われたとき、私は一発で倒された。
武藤さんがいなければ、今頃どうなっていたか分からない。
そして武藤さんを、一人きりの家へ帰すのも心配だった。
「……分かった。今夜だけだよ」
「うん」
「武藤さんは寝室を使って。私は台所の横で寝るから」
「狭いのに?」
「誰のせいだと思ってるんだ」
こうして私は、十分に考える時間もないまま、武藤さんを家に泊めることになってしまった。




