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抗争の始まり


「今日は、二人とも帰さねえ」


 黒田派幹部、柴崎剛。


 狭い清掃室の出入り口を、その巨体が完全に塞いでいた。


 私は床に倒れたまま、柴崎を見上げた。


 殴られた頬が熱い。


 口の中には鉄の味が広がり、頭の中では鐘でも鳴っているような音が響いていた。


「先生、大丈夫?」


 武藤さんが私をかばうように前へ出た。


「たぶん……」


「立てる?」


「少し待って。床が傾いて見える」


「床は傾いてないよ」


「それは分かってるんだけどね……」


 柴崎が鼻で笑った。


「そんな役立たずを守りながら、俺とやるつもりか?」


「先生は役立たずじゃない」


「だったら、何の役に立つんだ?」


「べん――」


 武藤さんが答えかけたところで、私は慌ててその袖を引いた。


「武藤さん、それは言わなくていいんじゃないかな」


「どうして?」


「何だか余計に馬鹿にされそうだから……」


 柴崎が眉を寄せた。


「さっきから何の話をしてやがる」


「こっちの話」


 武藤さんが静かに構える。


 その目から、いつもの軽さが消えた。


「一か月も私たちを監視してたの?」


「気づいてたのか?」


「今聞いて分かった」


「紛らわしい言い方すんな」


 柴崎は拳を鳴らしながら、清掃室の中へ一歩踏み込んだ。


「お前らが毎日ここへ集まって、何を企んでたかは知らねえ。だが、田代派が学校制覇を狙って動いてることは分かってる」


「田代派?」


 私は聞き返した。


 どこかで聞いたような気もする。


「お前が頭なんだろ、清掃員」


「いや、私は掃除をしてるだけだけど……」


「とぼけんな。黒田派の人間を五人も潰して、この女と毎日密会してやがる。それで何も企んでねえわけがないだろ」


「密会って……」


 実際には小学生の算数から教えていただけだ。


 それを学校制覇の作戦会議だと思って、一か月も監視していたのか。


「そんなくだらない理由で先生を殴ったの?」


 武藤さんの声が低くなった。


「くだらなくねえ。黒田さんを差し置いて鈴宮の頂点に立とうとするやつは、全員潰す」


「私たちは頂点なんて狙ってないよ」


「今さら命乞いか?」


「話を聞く気がないんだね」


「ああ…」


 柴崎が踏み込んだ。


 大きな拳が、武藤さんの顔へ迫る。


 武藤さんは頭を下げて避け、そのまま柴崎の腹へ拳を打ち込んだ。


 しかし、柴崎はほとんど動かなかった。


「軽いな」


 柴崎の前蹴りが、武藤さんの胸に入った。


「うっ!」


 武藤さんの体が後方へ飛び、机にぶつかった。参考書やノートが床へ散らばる。


「武藤さん!」


「先生は動かないで!」


 私は立ち上がろうとしたが、頭に鋭い痛みが走った。


 先ほど殴られた衝撃が残っている。


 視界もぼやけ、うまく立てそうにない。


 これでは動いても、武藤さんの邪魔になるだけだ。


 武藤さんはすぐに立ち上がった。


 柴崎の腹を殴り、膝を蹴る。


 攻撃は何度も当たっている。それでも柴崎は倒れなかった。


「お前の動きは、一か月ずっと見てた」


 柴崎が武藤さんの手首をつかむ。


 武藤さんの体が持ち上げられ、用具棚へ叩きつけられた。


 棚の上からバケツや洗剤が落ちる。


 さらに柴崎は武藤さんの制服をつかみ、そのまま清掃室の外へ投げ飛ばした。


 武藤さんは廊下を転がり、壁にぶつかって止まった。


 柴崎がゆっくりと清掃室を出る。


 私も壁を支えにしながら、二人の姿が見える位置まで移動した。


 武藤さんは壁に手をつきながら立ち上がった。


 口元から細く血が流れている。


「わざわざ広い場所に出してくれて、ありがとう」


「強がってんじゃねえ」


 柴崎が再び殴りかかる。


 広い廊下に出たことで、武藤さんは攻撃を避けられるようになった。


 柴崎の周囲を動きながら、太腿や腹へ攻撃を当てていく。


 だが、柴崎は攻撃を受けても前へ出続けた。


 武藤さんの蹴りを太い腕で受け止め、その足をつかむ。


「捕まえたぞ」


 柴崎が武藤さんの体を持ち上げた。


 次の瞬間、背中から廊下へ叩きつける。


 ドンッ!


「武藤さん!」


 武藤さんの顔が苦痛に歪んだ。


 柴崎はすぐにその上へ馬乗りになった。


「これで終わりだ!」


 大きな拳が振り下ろされる。


 武藤さんは頭を横へ動かし、ぎりぎりで避けた。


 拳が床に当たる。


 二発目は腕で受け止めたが、その衝撃で後頭部が床へぶつかった。


 柴崎が三発目を振り上げる。


 拳を振り上げた瞬間、武藤さんは腰を大きく跳ね上げた。


 柴崎の身体が前へ崩れる。


 その隙に武藤さんは身体を横へずらし、片脚を柴崎の首へ回した。さらに反対の脚を引き抜き、柴崎の腕ごと首を挟み込む。


 両脚を組み、強く締め上げた。


 三角絞めだった。


「ぐっ……!」


 柴崎の動きが止まった。


 首を抜こうとするが、片腕まで挟まれているため抜けない。


「こんなもん……!」


 柴崎は武藤さんごと持ち上げようとした。


 武藤さんの背中が床から離れる。


「武藤さん!」


 このまま床へ叩きつけられる。


 そう思った瞬間、武藤さんは柴崎の脚へ腕を伸ばした。


 膝の裏を抱え、体勢を崩す。


 柴崎は持ち上げきれず、再び両膝を床についた。


 武藤さんは脚を緩めない。


 柴崎の頭を両手で引き寄せ、さらに強く締め上げる。


「はなッ……!」


 柴崎が武藤さんの脇腹を殴った。


 一発。


 二発。


 武藤さんの顔が苦痛に歪む。


 それでも三角絞めを解かなかった。


「武藤さん、もう……!」


「大丈夫……」


 柴崎の動きが、次第に鈍くなっていく。


 武藤さんの脇腹を殴っていた拳が止まった。


 太い腕が力なく垂れ下がる。


 やがて柴崎の巨体が横へ傾き、そのまま廊下に倒れた。


 武藤さんは柴崎が動かなくなったのを確認してから、ゆっくりと脚を解いた。


「勝った……の?」


 私が尋ねると、武藤さんは荒い呼吸を繰り返しながら、柴崎の様子を確かめた。


「気絶してる。息はしてるよ」


「よかった……」


 武藤さんはその場に仰向けになった。


 額には汗が浮かび、口元からは血が流れている。


 柴崎の拳を受けた腕も赤く腫れていた。


 決して余裕の勝利ではなかった。


「先生、大丈夫?」


「俺は大丈夫。それより、武藤さんの方がひどいよ」


「これくらい平気」


「全然平気には見えないけど……」


「でも、勝ったよ」


 武藤さんが小さく笑った。


 私は何もできなかった。


 倒れたまま、武藤さんの名前を呼んでいただけだ。


 この一か月、毎朝護身術を教わっていた。


 それでも本物の喧嘩を前にすれば、立ち上がることすらできなかった。


 一方、武藤さんは黒田派の幹部を一人で倒した。


 その事実に安心すると同時に、自分の情けなさが胸に残った。


 そして、もう一つ。


 柴崎の敗北を知れば、黒田派は今度こそ本気で動き出す。


 床に倒れている柴崎を見ながら、私は新たな不安を感じていた。

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