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日常




朝は護身術。


 昼は仕事と授業。


 夕方から夜までは、狭い清掃室で勉強。


 そんな生活が、一か月続いた。


 私の体からは少しずつ余分な脂肪が落ち、階段を上っても以前ほど息を切らさなくなった。


 武藤さんの勉強も順調だった。


 小学生用の算数を終え、今は中学一年生の数学に入っている。


「先生、今日は何からやるの?」


「まずは、このページの簡単な問題からやってみようか」


 私は参考書の最初に並んでいる計算問題を指さした。


 武藤さんは不満そうに眉を寄せた。


「簡単な問題からやるの?」


「そうだよ」


「普通は難しい問題から倒すんじゃないの?」


「倒す?」


「喧嘩だったら、一番強いやつから倒すよ。そいつを倒せば、残りは怖がって逃げるから」


「勉強を喧嘩と同じように考えないでよ」


「でも、難しい問題を先に倒した方が楽じゃない?」


「勉強の場合は、簡単な問題から片づけた方がいいんだよ。基礎ができていないのに難しい問題へ進んでも、途中で分からなくなるからね」


「私は途中で投げ出さないよ」


「それでも、簡単な問題を解けるようになってから、少しずつ難しくした方が効率がいいよ。それに試験でも、解ける問題から先に片づけるのが基本なんだ」


「難しい問題は後回しにするの?」


「後回しにすることと、逃げることは違うよ。先に取れる点を確実に取って、それから残った時間で難しい問題を考えるんだ」


 武藤さんは少し考えた後、渋々鉛筆を握った。


「分かった。弱いやつから順番に倒す」


「その物騒な言い方はやめようか」


 武藤さんは、簡単な計算問題から順番に解き始めた。


 最初の五問は、すべて正解。


 その後の一次方程式で一度手が止まったが、前の問題を見直し、自分で解き方を見つけた。


「先生、できた!」


 武藤さんがノートを私の前に差し出した。


 一次方程式が十問、並んでいる。


「どれどれ……」


 私は一問ずつ答えを確かめた。


「九問正解。惜しいね」


「どこが間違ってるの?」


「七問目。マイナスの符号をつけ忘れてる」


「あっ……」


 武藤さんは悔しそうに頭を抱えた。


「もう一回やる」


「少し休んでもいいんじゃない?」


「十問全部できるまで休まない」


 そう言って、すぐに消しゴムを手に取った。


 最初は分数の計算すら怪しかった。


 それが今では、一次方程式を解いている。


 進む速度が特別速いわけではない。それでも、一か月前と比べれば確実に成長していた。


「数学はここまでにして、次は理科をやろうか」


「理科か……何の役に立つの?」


「身の回りで起きることには、ほとんど理科が関係しているよ。武藤さんの好きな喧嘩にもね」


「本当に?」


 先ほどまで嫌そうにしていた武藤さんが、急に顔を上げた。


「そこだけ食いつきがいいね……」


 私は参考書を開き、力の働きについて説明しているページを見せた。


 そこには、一本の棒を使って重い石を持ち上げる図が載っていた。


「これは、てこの原理だね」


「てこ?」


「支点、力点、作用点。聞いたことはない?」


「ない」


「例えば、素手では持ち上げられない重い石でも、棒を使えば小さな力で動かせる。支点から離れた場所に力を加えるほど、少ない力で大きなものを動かせるんだ」


「小さい人でも、大きい人を動かせるの?」


「人間を石と同じにしていいかは分からないけど、考え方は似ているよ。大きな力に、正面から同じ力で対抗する必要はないんだ」


 私は右肘を机につけ、腕を立てた。


「私の手首を横から押してみて」


 武藤さんが手首を押すと、私の腕は簡単に傾いた。


「次は、肘のすぐ近くを同じ強さで押してみて」


「……あれ?」


 先ほどより動かしにくかったのか、武藤さんが首を傾げた。


「肘が支点になっているから、支点から離れた手首を押した方が、小さな力で腕を動かせるんだ」


「押す場所が違うだけで?」


「そう。大きな力に正面から対抗しなくても、力を加える場所を変えれば、小さな力で動かせることがあるんだよ」


「相手が自分より大きくても、力を加える場所や方向を変えれば動かせる。反対に、正面から力比べをしたら、力が強い方が勝つ」


「じゃあ、大きいやつと戦うときは、正面からぶつからなければいいの?」


「喧嘩に使うために教えてるわけじゃないよ」


「でも、そういうことでしょ?」


「まあ……理屈としてはね」


 武藤さんは自分の手を見ながら、何かを確かめるように指を動かした。


「強いやつを倒すのに、そいつより強くなる必要はないんだ」


「相手を倒す話から離れようか」


「先生、このページ、もう少し詳しく教えて」


 初めて武藤さんの方から、理科を教えてほしいと言った。


 興味を持った理由には多少問題がある。


 それでも、学ぶきっかけになるのなら悪くはない。


 私は支点と力点、作用点の位置を、ノートに簡単な図で描いた。


     


 その日の清掃中も、武藤さんの指導は続いた。


「先生、もっと腰を落として」


 モップをかけていると、後ろから声が飛んでくる。


「これ以上落としたら、掃除じゃなくてスクワットだよ」


「同時にできて効率がいいでしょ?」


「掃除まで効率で考えないでよ」


 私は文句を言いながらも、腰を落としてモップを押した。


 重いゴミ袋を運ぶのは足腰の稽古。


 雑巾を強く絞るのは握力の稽古。


 机を持ち上げるときは、腕の力だけに頼らず、膝を曲げて全身を使う。


 武藤さんに言わせれば、掃除のすべてが護身術につながるらしい。


「先生、動きが遅いよ」


「武藤さん、掃除を手伝いに来たんじゃなかった?」


「先生の指導をしてるの」


「せめて雑巾を一枚持て」


 勉強と護身術。


 教える側と教えられる側が、そのときだけ入れ替わる。


 不思議な関係だった。


 だが、悪くない。


 これまで一人で黙々とこなすだけだった清掃の仕事も、武藤さんがいるだけで少し楽しく感じられた。


 その日の勉強が終わったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。


「先生、あと一ページだけやっていい?」


「続きは明日にしよう。明日も朝から稽古するんでしょ?」


「まだ眠くないよ」


「私はもう眠いよ」


「先生、体力ないね」


「朝から仕事をしてるからね」


 武藤さんは不満そうに頬を膨らませたが、参考書を閉じた。


 私は机の上を片づけ、椅子を壁際に寄せた。


 武藤さんもノートや筆記用具を鞄にしまう。


 廊下から物音は聞こえない。


 校舎内に残っているのは、おそらく私たちだけだろう。


「先生、今日の稽古で教えたこと覚えてる?」


「相手の目だけじゃなく、肩や腰も見る」


「それから?」


「怖くても目を閉じない。背中を向けない」


「ちゃんと覚えてるじゃん」


「毎朝、同じことを言われてるからね」


 私は清掃室の蛍光灯を消した。


 室内が暗くなり、廊下の非常灯だけが扉の隙間から差し込む。


「じゃあ、帰ろうか」


「うん」


 私は何の警戒もせず、清掃室の扉を開けた。


 その瞬間だった。


 扉の脇に隠れていた大きな影が動いた。


「先生!」


 武藤さんの声が聞こえたときには、もう遅かった。


 暗闇から巨大な拳が飛んでくる。


 避けることも、身構えることもできなかった。


 鈍い衝撃が頬を貫いた。


「がっ……!」


 視界が大きく揺れ、私の体は清掃室の中へ吹き飛ばされた。


 背中から机にぶつかり、参考書と筆記用具が床へ散らばる。


「先生!」


 武藤さんが私へ駆け寄ろうとする。


 だが、廊下から伸びてきた太い腕が、その進路を塞いだ。


 非常灯に照らされ、一人の男子生徒が清掃室へ入ってくる。


 身長は百八十センチを軽く超えていた。制服の上からでも分かるほど肩幅が広く、短く刈り込まれた髪の下には、眉を横切る傷がある。


「お前、誰だよ?」


 武藤さんが私をかばうように前へ出た。


 男は拳を鳴らしながら、薄く笑った。


「黒田派No.2の柴崎剛だ」


 狭い清掃室の出入り口を、柴崎の巨体が完全に塞いでいた。


 柴崎は床に倒れた私を見下ろした後、武藤さんへ視線を移した。


「ニか月も待ったんだ」


 低い声が、静まり返った清掃室に響く。


「今日は、二人とも帰さねえ」

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