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久しぶりの登校

一週間ぶりに鈴宮高校へ登校した朝、私は校門の前で足を止めた。


 黒田派の報復があるかもしれない。


 そう考えると、校舎へ続く道が処刑台までの通路に見えてしまう。


「先生! 何してるの? 遅刻するよ」


 隣に立つ武藤さんが、黒いフルフェイスヘルメットを軽く叩いた。


「いや……本当に大丈夫なのかな」


「たぶん」


「今、たぶんって言った?」


「大丈夫だよ。たぶん」


「二回も言うな。不安になるだろ」


 私は何度も周囲を確認しながら校門をくぐった。


 昇降口にも廊下にも、黒田派らしい生徒はいない。以前私を襲った五人組の姿も見当たらなかった。


 すれ違う生徒たちはこちらを見て何かを囁いていたが、近づいてはこない。


 何かある。


 そう思いながら身構えていたのだが、結局、何事もないまま午前中が終わった。


「本当に襲ってこなかったな」


「だから言ったでしょ?」


「たぶんって言ってたけどね」


 安心するのは早いかもしれない。


 それでも、校内を歩くたびに物陰を確認していた昨日までと比べれば、少しだけ肩の力を抜くことができた。


 放課後、私たちは勉強場所を探すことにした。


 最初に図書室へ行ったが、鈴宮高校の図書室は不良たちの昼寝場所になっていた。


 机に足を乗せて眠る者、カードゲームをする者、棚の陰で煙草を吸う者までいる。


 とても勉強できる環境ではない。


 空き教室は派閥の溜まり場として使われていた。食堂は騒がしく、屋上には鍵がかかっている。


 体育館裏なら静かだったが、雨が降れば使えない。それに、どう見ても勉強より喧嘩に向いている場所だった。


「なかなか見つからないね」


「先生の家でやればいいんじゃない?」


「毎日来るつもり?」


「駄目なの?」


「駄目というか……近所の人に女子高校生を連れ込んでると思われるよ」


「実際に連れ込んでるじゃん」


「勉強を教えるためだろ。大事な部分を省略するな」


 校内を歩き回った末、私は一階の廊下の突き当たりで足を止めた。


 目の前にあるのは、普段私が使っている清掃室だった。


 中にはモップや箒、洗剤、バケツが詰め込まれている。人が二人入れば、それだけで窮屈になるほど狭い。


「先生、もしかしてここで勉強するの?」


「ほかに場所もないし、整理すれば何とかなるかもしれない」


「机も椅子もないよ?」


「探せば何かあるんじゃないかな」


 二人で清掃用具を端へ寄せ、奥に積まれていた壊れかけの小机を引っ張り出した。廃棄予定の椅子も二脚見つかった。


 窓はなく、蛍光灯はときどき点滅する。洗剤の臭いも染みついていた。


 それでも扉を閉めれば、廊下の騒音はかなり遠ざかる。


 武藤さんは机に参考書を並べ、満足そうに頷いた。


「今日から、ここが私たちの勉強部屋ね!」


 こうして、狭い清掃室が私たちの勉強部屋になった。


 その日から、私たちの新しい生活が始まった。


 朝は登校する生徒が少ない時間に集合し、校舎裏で護身術の稽古をする。


「先生、もう少し顎を引いて」


「こんな感じ?」


「うん。それと、脇も締めて。相手の目だけじゃなくて、肩とか腰の動きも見るの」


 武藤さんが軽く右手を伸ばす。


 私は驚いて頭を下げた。


「下を向いたら駄目だよ」


 額を軽く叩かれる。


「痛っ」


「今のが拳だったら、もっと痛いよ?」


「五十六歳の清掃員に厳しすぎない?」


「襲ってくる相手は、先生の年齢なんて気にしてくれないよ」


 それを言われると何も返せなかった。


 武藤さんが軽い打撃を繰り出し、私が避ける。


 最初の頃は怖くて目を閉じてしまった。背中を向けて逃げると、武藤さんにすぐ注意された。


「先生、相手に背中を向けたら駄目」


「でも、怖いものは怖いよ」


「目を閉じた方がもっと怖くない?」


「見えていなければ、殴られる瞬間までは怖くない」


「その後は?」


「もっと怖いね」


「じゃあ、ちゃんと見て」


 毎朝繰り返すうちに、相手の動きを見たまま横へかわすことが少しずつできるようになった。


 稽古を終えると、私は仕事へ向かい、武藤さんは勉強部屋へ向かう。


 だが、数日たって気づいた。


 武藤さんは授業にほとんど出ていなかった。


「武藤さん、授業には出た方がいいんじゃないかな」


「授業を聞くより、自分で参考書を進めた方が早いよ」


「でも、出席日数が足りなくなったら、卒業できなくなるかもしれないよ。東大を受ける以前の問題になってしまう」


「鈴宮高校だよ? どうにでもなるでしょ」


「そうかもしれないけど、先生たちに目をつけられる必要もないと思う。授業中に自分の勉強をするにしても、教室にはいた方がいいんじゃないかな」


「授業を聞かなくてもいいの?」


「それは先生に怒られない程度にね」


「先生なのに、そんなこと言っていいの?」


「私は清掃員だよ」


「でも、私の先生でしょ?」


 武藤さんは不満そうな顔をしていたが、翌日から授業に出るようになった。


 夕方になると、私たちは清掃室で勉強を始める。


 英語、算数、国語、理科、社会


 武藤さんの学力は、小学五年生程度だった。


 分数の計算で止まり、主語と述語の区別にも苦戦した。


「先生、こんなの本当に東大受験と関係あるの?」


「もちろん。土台が崩れていたら、その上に何も積めないからね」


「でも、二年しかないよ?」


「だからこそ、最初に基礎を固めた方がいいと思う。分からないところを飛ばすと、後でもっと時間がかかるよ」


 同じ問題を何度説明しても、武藤さんは間違えた。


 思わず苛立ちそうになることもあったが、私自身、これまでの人生で何度も失敗してきた。


 一度や二度できなかった人間を、責められるような立場ではない。


「もう一度、最初からやってみようか」


「今度は一人で解く」


「大丈夫?」


「解けるから見てて」


 武藤さんは舌打ちしながらも、理解するまで決して鉛筆を置かなかった。


 そして私の仕事中も、護身術の稽古は続いた。


「先生、床を拭くときは腕だけを動かしたら駄目だよ」


 モップを持つ私の背後から、武藤さんが声をかける。


「少し腰を落として、下半身で押すの」


「これは掃除じゃないの?」


「護身術の稽古だよ」


「どこがだよ」


「足腰を鍛えられるでしょ? ほら、もっと腰を落として」


 私は言われたとおりに腰を落とし、廊下を端から端まで磨いた。


 重いゴミ袋を運ぶときは、腕力だけで持たず、膝を曲げて全身で持ち上げる。


 階段掃除では、足音を立てずに昇り降りする。


 雑巾を絞るのは握力の稽古。窓拭きは肩の持久力。机を運ぶときは体幹の訓練。


「先生、動きが遅いよ」


「武藤さん、掃除を手伝いに来たんじゃなかった?」


「指導をしに来たの」


「せめて雑巾を一枚持て」


 朝は護身術。


 昼は仕事と授業。


 夕方から夜までは、狭い清掃室で勉強。


 そんな生活が、一か月続いた。


 私の体からは少しずつ余分な脂肪が落ち、階段を上っても以前ほど息を切らさなくなった。


 武藤さんも、小学生用の算数を終え、中学一年生の数学へ進んでいた。


 一か月。


 まだ、たった一か月だ。


 それでも私たちは、少しずつ前へ進んでいる。


 私はそう思っていた。


 その日の夜、勉強を終えて清掃室を出ると、廊下の奥から小さな物音が聞こえた。


「誰かいるのかな」


 暗い廊下を見つめたが、人の姿はない。


「猫じゃない?」


「校舎の中だよ?」


「じゃあ、ネズミかも」


「それはそれで嫌だな……」


 私たちは深く考えず、その場を離れた。


 気のせいだと思っていた。


 だから気づかなかった。


 曲がり角の向こうに、スマートフォンを握った男子生徒が隠れていたことに。


 朝の稽古も、夕方の勉強も、私たちの行動はすべて黒田派に監視されていた。


 黒田派が襲ってこなかったのは、諦めたからではない。


 私たちが警戒を解き、油断する瞬間を、静かに待っていたのだ。

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