先生と生徒
参考書を買った翌朝、武藤さんは私の家へやってきた。
約束は八時だったが、時計はまだ六時を少し過ぎたところだった。
「早くない?」
「勉強したくて目が覚めた」
武藤さんは玄関でヘルメットを脱ぎ、テーブルの前へ座った。
その日から、二人で勉強する生活が始まった。
最初に取り組んだのは算数だった。
分数、小数、割合。
武藤さんは何度も同じところで間違えたが、途中で投げ出すことはなかった。
「分母をそろえてから計算するんだ」
「どうして?」
「大きさの違うものは、そのまま足せないからだよ」
私はまた紙に円を描き、二分の一と三分の一を説明した。
三度目で、武藤さんは正しい答えを書いた。
「六分の五」
「正解」
赤ペンで丸をつけると、武藤さんは少し笑った。
国語では慣用句に苦戦し、英語では『I like dogs.』を何度も声に出した。
社会は、都道府県の位置から覚え直した。
理科では、懐中電灯と鏡を使って光の反射を教えた。
「光が入る角度と、反射する角度は同じになる」
武藤さんは鏡を動かし、壁に映る光を左右へ走らせた。
「これ、何に使かうの?社会で使うの?」
「……試験で使う」
午前中の勉強が終わると、今度は武藤さんが私を部屋の中央へ立たせた。
「次は私が先生の番」
「何をするの?」
「護身術を教える!攻撃を避ける練習」
「まだ身体が痛いんだけど」
「当てないから大丈夫」
武藤さんは、私と向かい合って両手を構えた。
「私がゆっくり殴るから、避けて」
「分かった」
武藤さんの左手が、私の顔へ伸びてくる。
私は慌てて両目を閉じ、大きく顔をそらした。
拳は当たらなかった。
だが、身体のバランスを崩し、後ろの壁へ背中をぶつけた。
「目を閉じたら、次の攻撃が見えない」
「拳が顔に来たら、普通は閉じるよ」
「閉じないで」
「無理だと思う」
「慣れればできる」
もう一度、武藤さんが拳を伸ばす。
今度は目を開けていたが、避ける方向を間違え、拳の方へ顔を動かしてしまった。
武藤さんが寸前で手を止める。
鼻先に拳があった。
「先生、今のは自分から当たりに来てた」
「どっちへ避ければいいのか分からないんだ」
「拳だけじゃなくて、相手の肩を見て。肩が動けば、攻撃が来るのが分かるから」
武藤さんは、何度もゆっくり拳を伸ばした。
私はそのたびに目を閉じたり、足をもつれさせたり、机へぶつかったりした。
「本当に運動できないね」
「子供のころから、ずっとそうだった」
「でも、一回目よりはよくなってる」
五十回ほど繰り返したころ、私はようやく一発だけ、身体を小さく動かして拳を避けることができた。
「今のは?」
「まあまあ」
「避けられたよね?」
「本番なら、二発目で殴られてる」
「少しくらい褒めてくれてもいいんじゃないかな」
勉強では私が先生だったが、護身術では武藤さんが先生だった。
互いに教える側になったり、教わる側になったりする。
そんな日が3日続いた。
朝から昼までは勉強。
休憩中には攻撃を避ける練習。
昼食のあと、夕方まで再び参考書を進めた。
本を買って金がなくなった私のために、武藤さんが弁当を二つ買ってくる日もあった。
「給料が入ったら返すよ」
「じゃあ、叙々苑がいい!!」
「弁当より高くなってるよね」
武藤さんが笑う。
私も、つられて笑った。
一人で暮らしていた部屋には、少しずつ武藤さんの物が増えていった。
参考書。
ノート。
予備の筆記用具。
冷蔵庫に入れた飲み物。
これまで狭いだけだった部屋が、以前よりさらに狭くなった。
不思議と、嫌ではなかった。
一週間後。
私は仕事へ復帰するため、久しぶりに作業着へ袖を通した。
顔の腫れは引いていたが、脇腹にはまだ痛みが残っている。
外へ出ると、武藤さんがバイクのそばで待っていた。
黒いヘルメットをかぶり、もう一つのヘルメットを私へ差し出す。
「黒田派、来ると思う?」
私が尋ねると、武藤さんは少し考えた。
「たぶん」
「行きたくなくなってきた」
「大丈夫。約束したから」
「何を?」
「私が先生を守る」
武藤さんは当然のように言った。
私はヘルメットを受け取った。
この3日で、武藤さんは分数を足せるようになった。
私は、ゆっくり飛んでくる拳を一度だけ避けられるようになった。
東大までは遠く、私は相変わらず弱い。
それでも、一週間前とは少しだけ違っていた。
私たちは再び、鈴宮高校へ向かった。




