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劣等感

学力確認テストを終えた翌日、私は武藤さんとショッピングモールへ向かった。


目的は、参考書を買うことだった。


武藤さんの現在の学力は、おおよそ小学五年生程度。


高校範囲はほぼ白紙で、中学校で習う内容にも大きな穴がある。


東大の問題へ挑戦する以前に、小学校の内容からやり直さなければならなかった。


休日のショッピングモールは、多くの人で混雑していた。


小さな子供の手を引く夫婦。


ベビーカーを押す父親。


買い物袋を持ち、楽しそうに話す家族。


そういう人たちを見ると、今でも憂鬱になる。


自分が手に入れられなかった人生を、目の前へ並べられているように感じるからだ。


私はなるべく周囲を見ないようにして歩いた。


隣では、武藤さんが黒いバイク用ヘルメットを抱えている。


「先生、早く」


「分かってる。人が多いから、急がないで」


大型書店は、ショッピングモールの三階にあった。


店へ入ると、武藤さんは迷わず大学受験の棚へ向かった。


しばらくして、東京大学と大きく書かれた赤い本を抱えて戻ってくる。


「これを買えばいい?」


「それは、まだ棚に戻してきて」


「どうして?」


「今の武藤さんが見ても、ほとんど理解できないと思う」


「でも、最後にはこれを解くんでしょ?」


「最後にはね。でも、今はまだ必要ない」


私は赤本を棚へ戻し、小学生向けの参考書が並ぶ場所へ向かった。


色鮮やかな表紙に、大きな文字や動物の絵が描かれている。


周囲では、小学生くらいの子供が母親と一緒に問題集を選んでいた。


武藤さんの足が止まる。


「ここ?」


「ここだよ」


「私、高校生なんだけど」


「昨日の結果を考えると、ここから始めた方がいい」


「もう少し高校生らしい本から始めたい」


「難しい本を買っても、分からないまま本棚に置くことになる。分からないところまで戻った方が、結果的には早いと思う」


武藤さんは、納得できない様子で小学生向けの棚を見た。


最初に選んだのは算数だった。


小学五年生と六年生の算数。


分数と小数の計算。


割合と百分率。


図形。


文章題。


武藤さんは、私が渡した本を両腕で抱えた。


「まだ買うの?」


「国語、英語、理科、社会が残ってる」


「全部?」


「東大を受けるなら、どれも避けて通れないからね」


国語の棚では、小学生向けの漢字ドリル、慣用句、ことわざ、文法、文章読解を選んだ。


英語は、アルファベットと基本単語から始める本、中学三年間の英文法、短い英文を読むための教材。


理科は、小学校の生物、物質、電気、光と音をまとめた参考書と、中学理科の基礎。


社会は、日本地図、都道府県、歴史の流れ、公民の基本が載っているものを選んだ。


さらに、中学校範囲へ進んだあとに使う五教科の問題集も加えた。


国語。


数学。


英語。


理科。


社会。


買い物かごが一つでは足りなくなり、二つ目を使った。


「本当に、こんなに買うの?」


武藤さんが尋ねた。


「一度に全部使うわけじゃないよ。まずは、小学校範囲から始めよう」


「何日で終わらせればいい?」


「何日くらいで終わらせるつもり?」


「一週間」


「さすがに一週間では難しいかな」


「じゃあ二週間」


「ページを埋めれば終わりというわけじゃない。何も見ずに解けるようになって、初めて身についたと言えるんだ」


私は一冊ずつ中身を確認した。


似た内容の本もあったが、武藤さんは基礎の抜けが多い。説明を読むための参考書と、繰り返し解くための問題集が必要だった。


結局、五教科を合わせて二十冊以上になった。


会計は三万円近くになった。


武藤さんが財布を取り出した。


「私が払うよ!先生!」


「バイクを買うために貯めてたお金が残ってる」


「いいよ。俺が払うよ」


「先生、貧乏でしょ」


「……」


この子は、国語や算数だけでなく、道徳も勉強した方がいいかもしれない。


「いや、俺が払う。これくらいのお金は……」


私は武藤さんより先に財布を取り出した。


中を開く。


一万円札が一枚。


五千円札がニ枚。


残りは、数枚の小銭だけだった。


給料日までの食費や交通費を含めて、これが私の全財産だった。


会計画面には、二万九千八百六十円と表示されている。


どう数えても足りない。


財布の中を確認したまま動かなくなった私を、武藤さんが横からのぞき込んだ。


「足りないね」


「分かってる」


「やっぱり私が払う」


「いや……半分は俺が払う」


結局、私は一万五千円を出し、残りを武藤さんが支払った。


五十六歳の男が、女子高校生と参考書代を割り勘にした。


しかも、私が払った一万五千円は、財布の中に入っていた紙幣のすべてだった。


店員は何も言わなかった。


武藤さんも、気にした様子はなかった。


惨めだと思っているのは、私だけだった。


「先生」


「何?」


「ありがとう。大事に使う」


武藤さんは、参考書の入った袋を見ながら言った。


その一言で、少しだけ救われた。


だが、今月はしばらく、半額弁当すら買えそうになかった。


この子は道徳も勉強した方がいいかもしれない。


「いや、俺が払う!これぐらいのお金は…」

店員が本を何冊かの紙袋へ分けていく。


持ち手が破れないよう、袋を二重にしてもらった。


会計を終えると、武藤さんが紙袋を私の前へ並べた。


「はい、先生」


「何?」


「持って」


「武藤さんの参考書だよね?」


「重い物は先生が持つものだから」


「誰が決めたの?」


「今決めた」


結局、私は四つの紙袋を持たされた。


両手がふさがり、腕が一気に下へ引っ張られる。


殴られた脇腹も、まだ少し痛んだ。


武藤さんが持っているのは、黒いヘルメットと、一番軽い紙袋だけだった。


「少しくらい持ってくれないか」


「持ってる」


「その袋には漢字ドリルが二冊しか入ってないよね」


「これから勉強するから、体力を残してる」


「俺はまだ怪我人なんだけど」


そんな話をしながら、書店を出ようとしたときだった。


「田代?」


後ろから名前を呼ばれた。


聞き覚えのある声だった。


振り返ると、同年代の男が立っていた。


髪には白いものが混じっていたが、背筋は伸び、上質そうなジャケットを着ている。


隣には妻らしき女性がいた。


そのそばには、成人した二人の子供と、小さな孫までいる。


男の顔を見ているうちに、名前を思い出した。


森川だった。


小学校から高校まで、ずっと同じ学校に通っていた。


家も近く、子供のころはよく一緒に遊んだ。


放課後に公園へ行き、互いの家でテレビゲームもした。


高校時代には、同じ部活動にも入っていた。


だが、高校を卒業してからは進む道が分かれた。


私は東京の大学へ行き、森川は地元へ残った。


最初の数年間は連絡を取っていたが、次第に会うこともなくなった。


最後に話したのがいつだったのか、思い出せない。


「やっぱり田代か。久しぶりだな」


「ああ……久しぶり」


「何年ぶりだ?」


「三十年以上になるかもしれない」


「そんなに経つか」


森川は、昔と変わらない笑い方をした。


その姿を見て、子供のころの記憶が一瞬だけ戻ってきた。


だが、隣に並ぶ家族を見て、すぐに現実へ引き戻された。


森川は、地元で会社を経営しているらしい。


以前、別の同級生からそんな話を聞いたことがある。


事業はうまくいき、今では複数の店舗を持っているという。


森川が、自分の家族を順番に紹介した。


妻。


息子。


娘。


そして孫。


昔は同じ教室で、同じようにくだらない話をしていた。


勉強では、いつも私の方が上だった。


森川から宿題を見せてほしいと頼まれたことも、一度や二度ではない。


それなのに、今の私たちの間には、埋められないほど大きな差がついていた。


森川には仕事がある。


家族がいる。


子供も孫もいる。


私は五十六歳になっても独身で、アルバイトの清掃員をしている。


両手には、小学生向けの参考書が詰まった紙袋を提げていた。


「田代は、今何をしてるんだ?」


森川が尋ねた。


一番聞かれたくない質問だった。


「俺は……」


清掃のアルバイトをしている。


そう答えればいいだけだった。


嘘をつく必要もない。


だが、言葉が喉につかえた。


東大を卒業したあと、大企業を一年で辞めた。


その後は仕事を転々とし、夢を追って失敗した。


今は清掃員として働き、その仕事さえ失いかけている。


目の前にいる森川の人生と比べると、自分がひどく惨めに思えた。


「今は、その……」


答えられずにいる私を見て、森川の表情がわずかに変わった。


何かを察したのかもしれない。


そのとき、武藤さんが私の前へ出た。


「私の先生だよ!」


店の前を歩いていた人たちが、何人かこちらを見た。


「先生?」


森川が驚いた顔をする。


「この人に勉強を教えてもらってる」


武藤さんは、抱えていた漢字ドリルを見せた。


「私は東大を目指してるから」


「東大?」


「うん。先生が合格させてくれる」


私は、そこまで言った覚えはなかった。


教えるとは約束したが、必ず合格させられるとは言っていない。


否定しようとした。


だが、森川が感心したように私を見ていた。


「そうか。田代は昔から勉強ができたもんな」


「勉強しかできなかったんだ」


私は自嘲気味に答えた。


「それでも、人に教えられるのは立派なことだろ」


森川はそう言って笑った。


昔と同じ笑顔だった。


森川の家族が先に歩き始める。


「また今度、ゆっくり話そう」


「ああ」


連絡先を交換することもなく、私たちは別れた。


家族に囲まれて歩いていく森川の後ろ姿を見つめる。


胸の奥が苦しくなった。


昔は、同じ場所にいた。


それなのに森川は、自分の仕事と家庭を築いた。


私は、何一つ築けなかった。


「先生」


武藤さんに呼ばれ、顔を上げた。


「昔の友達?」


「小学校から高校まで一緒だった。昔は、よく遊んでた」


「今は?」


「高校を卒業してから、ほとんど会ってない」


「そう」


武藤さんは、それ以上聞かなかった。


代わりに、私が両手に持っている紙袋を指さした。


「先生、早く帰ろう」


「やっぱり少しくらい持ってくれないか」


「先生なんだから頑張って」


「先生は荷物持ちじゃないんだけど」


「重い物を持つのも、護身術の練習になる」


「そんな練習は聞いたことがないよ」


武藤さんが先に歩き出す。


私は重い紙袋を両手に提げ、そのあとを追った。


昔の友人と比べれば、私の人生は失敗だらけだった。


仕事も、夢も、家庭も、何一つ手に入らなかった。


それでも今は、一人だけ私を先生と呼ぶ人間がいる。


そのことを、少しだけ嬉しいと思っている自分がいた。


書店を出る直前、武藤さんが振り返った。


その視線の先には、東大の赤本が並んでいる。


「先生」


「何?」


「次に来るときは、あれを買う」


赤本が置かれた棚は、同じ店内にある。


それでも今の私たちには、ひどく遠い場所だった。


私は二十冊以上の参考書を持ち直した。


「まずは、今日買った本を終わらせてからにしよう」


「全部終わったら、買っていい?」


「ああ。そのときは一緒に買いに来よう」


私たちは、東大へ続く最初の荷物を抱え、ショッピングモールをあとにした。

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