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最初の一歩

しかし、最も深刻だったのは国語だった。


漢字の読み書きだけではない。


言葉の意味そのものを、正しく理解できていない。


『胸をなで下ろす、という言葉の意味を書きなさい』


その問題に、武藤さんは、


『胸を上から下に触ること』


と答えていた。


「間違ってる?」


「動作の説明としては間違っていない。だが、この場合は安心するという意味だ」


「最初から安心するって書けばいいのに」


「それを言ったら慣用句が全部なくなる」


次の問題を見る。


『頭が下がる、という言葉を使って短い文章を作りなさい』


武藤さんの答えは、


『授業中に眠くなって頭が下がった』


だった。


「文章としては成立してる」


「そういう問題じゃない」


「頭は下がってる」


「感心したり、尊敬したりするという意味で使うんだ」


「だったら、尊敬するって書けばいいのに」


先ほどと同じ反論だった。


そして、物語文を読んで登場人物の心情を答える問題。


『このとき、主人公はどのような気持ちだったと考えられますか』


武藤さんは、解答欄へ大きく書いていた。


『エスパーじゃないのでわかりません』


私は赤ペンを持ったまま動けなくなった。


「武藤さん」


「何?」


「試験では、文章に書かれた行動や会話から、登場人物の気持ちを考えるんだ」


「でも、本当の気持ちは本人にしか分からない」


「登場人物は架空の人間だ」


「だったら、作者に聞かないと分からない」


「頼むから、問題と戦わないでくれ」


さらに漢字の書き取りを見る。


『努力』の『努』は、上半分だけ書かれ、下の『力』が抜けていた。


『反省』は、『反正』になっている。


『将来』は、『未来』と書かれていた。


「これは同じような意味だから正解でいい?」


「漢字の書き取りだから不正解だ」


「意味は合ってる」


「意味を尋ねている問題じゃない」


「試験って細かいね」


「その細かい試験で東大へ入るんだ」


すべての採点を終えた。


高校範囲は、ほぼ白紙。


中学校範囲も、まともに解けていない。


正解できている問題を確認すると、おおよそ小学五年生程度だった。


しかも国語は、それより下かもしれない。


私は答案をテーブルへ置いた。


「どうだった?」


武藤さんが尋ねた。


「正直に言う」


「うん」


「かなりやばい」


「どのくらい?」


「アリがゾウに挑むぐらいヤバい」


「私がゾウ?」


「君はアリ」


「でも、学校のテストでは真ん中より上だよ!えっへん!」


その言葉を聞いて、私は鈴宮高校の恐ろしさを別の意味で理解した。


この学力で、校内では平均以上なのだ。


「今の学力は、小学五年生くらいだ」


武藤さんは少し考えた。


「じゃあ、小学六年生から始めればいい?」


「そう単純じゃない。五年生以前の範囲にも、いくつも穴がある」


「全部埋める」


「簡単に言うな」


「難しいから、先生に頼んだ」


武藤さんは答案を引き寄せた。


そして、不正解になった問題を一つずつ見直し始めた。


落ち込んだ様子はない。


恥ずかしがる様子もなかった。


「この分数、どうやって足すの?」


「まず、分母をそろえる」


「どうして?」


「同じ大きさに分けないと、足せないからだ」


私は新しい紙を一枚取り、円を二つ描いた。


片方を二つに分け、もう片方を三つに分ける。


武藤さんは黙って私の説明を聞いていた。


東大まで、あと二年半。


偏差値を考える段階ですらなかった。


小学五年生の学力から、東京大学を目指す。


調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、無理だと思った。


それでも武藤さんは、分数の問題をもう一度解いていた。


先ほどとは違い、今度は正しい答えを書いた。


六分の五。


「できた」


武藤さんが、笑った。


その顔を見ていると、私まで少し嬉しくなった。


人に勉強を教えるのも、案外悪くないのかもしれない。


私は正解の上に、大きな丸をつけた。


東大合格へ向けた最初の一歩は、小学生の分数だった。

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