武藤さんの学力①
あの事件から三日後。
私は仕事を休み、アパートの部屋で横になっていた。
医師からは、しばらく安静にするよう言われている。
殴られた脇腹は、寝返りを打つだけでも痛んだ。顔の腫れも完全には引いていない。
武藤さんとは、一週間後に会う約束をしていた。
それまでに私が現在の東大受験について調べ、簡単な学習計画を作ることになっている。
突然、玄関のチャイムが鳴った。
宅配便でも来たのかと思った。
注文した覚えはないが、清掃会社から何か届いたのかもしれない。
身体を起こし、脇腹を押さえながら玄関へ向かう。
扉を開けると、黒いバイク用ヘルメットが目の前にあった。
「おはよう、先生」
武藤さんだった。
制服ではなく、黒いジャージを着ている。背中には大きなリュックサックを背負っていた。
「どうしてここにいるんだ」
「勉強しに来た」
「一週間後と言っただろ」
「待てなかった」
「まだ三日しか経ってないぞ」
「早く勉強したくて、うずうずした」
そんな理由で約束より四日も早く、清掃員の家まで来る高校生がいるとは思わなかった。
「住所は、どうやって調べた」
「この前送ったから覚えてた」
病院から帰った日、武藤さんのバイクで家まで送ってもらっている。
確かに、場所は知られていた。
「それより、入れて」
武藤さんが私の脇から部屋の中をのぞいた。
私は慌てて扉を閉めかけた。
部屋には、脱いだ服やコンビニの袋が散らばっている。
テーブルの上には、食べ終わったカップラーメンの容器まで置いたままだった。
これまで、誰かを部屋へ招くことなどなかった。
ましてや、女子高校生を入れる準備などしていない。
「少し待て」
「どうして?」
「片づける」
「別に気にしない」
「俺が気にするんだ」
十分ほど待たせ、見える範囲のゴミや服を押し入れへ詰め込んだ。
改めて武藤さんを部屋へ入れる。
彼女は玄関でヘルメットを脱いだ。
長い黒髪が肩へ落ちる。
あのときは自分も傷だらけで、顔をよく見る余裕がなかった。
こうして明るい場所で見ると、やはり整った顔をしている。
黙っていれば、鈴宮高校の不良たちを一人で倒した人間には見えなかった。
武藤さんは部屋を見回した。
「狭いね」
「帰ってくれ」
「でも、落ち着く」
それが褒め言葉なのかは分からなかった。
武藤さんは背負っていたリュックサックを床へ置いた。
中から、新品のノートを十冊ほど取り出す。
そのほかにもシャープペンシル、消しゴム、付箋、単語帳が次々に出てきた。
「全部、昨日買った」
「参考書は?」
「何を買えばいいか分からなかった」
「それでいい。今の学力が分からないうちに買っても無駄になる」
私はパソコンの横に置いていた紙の束を取り出した。
現在の学力を確認するため、昨夜作った試験だった。
国語。
算数。
英語。
理科
社会
問題は、小学校高学年から高校一年まで、少しずつ難しくなるように作ってある。
「まず、これを解いてもらう」
「東大の問題?」
「学力確認テストだ」
「簡単そう!」
武藤さんは自信ありげにシャープペンシルを握った。
制限時間は二時間。
分からない問題は飛ばしていいと伝えた。
最初の十分は、順調そうだった。
武藤さんの手が止まることはない。
問題用紙へ、次々に答えを書き込んでいく。
その様子を見て、私は少し安心した。
鈴宮高校の偏差値は低い。それでも、高校へ入学できた以上、中学校までの基礎は身についているはずだ。
その考えが間違っていたと気づいたのは、採点を始めてからだった。
算数では、整数の足し算や引き算はできていた。
掛け算も、簡単なものなら問題ない。
だが、分数が出た瞬間から正答率が大きく下がった。
『二分の一と三分の一を足しなさい』
武藤さんの答えは、五分の二だった。
分子同士と分母同士を、そのまま足している。
割合の問題も理解できていなかった。
『千円の商品を二割引きで買いました。代金はいくらですか』
答えは、九百八十円。
「どうして九百八十円になるんだ」
「二割だから、二十円引いた」
「二割は二十円という意味じゃない」
「違うの?」
「違う」
英語も深刻だった。
アルファベットは書ける。
簡単な単語も、いくつか知っている。
だが、『私は犬が好きです』を英語にする問題には、
『I am dog.』
と書かれていた。
「これだと、私は犬です、になる」
「好きって意味じゃないの?」
「どの単語が好きなんだ」
武藤さんは『dog』を指さした。
「みんな犬は好きでしょ?、わざわざ好きって意味の単語はいらなくない?」
「…まずいかも」
しかし、最も深刻だったのは国語だった。




