東大への道
午前四時を過ぎても、眠気は戻ってこなかった。
目を閉じれば、夢の中で聞いた声がよみがえる。
お前でなくてもいい。
君には頼めない。
いてもいなくても同じだ。
私は布団から抜け出し、台所で水を飲んだ。
冷たい水が空腹の胃へ落ちていく。
もう一度眠ろうとは思えなかった。
部屋の隅に置いてある古いノートパソコンを開いた。
起動するまでに、ひどく時間がかかった。
その間にも、武藤さんの言葉が頭に浮かんだ。
――東大を目指して破滅するなら、それが私の本望。
勢いに押され、教えると約束してしまった。
だが、私は現在の東大受験について、何も知らない。
私が受験したのは、四十年近く前だ。
東大を卒業したという過去だけで、今の受験生を指導できると思うほど、自惚れてはいなかった。
検索欄へ文字を打ち込んだ。
『東京大学 入試 現在』
東京大学の公式サイトを開く。
画面には、入学者選抜要項や募集要項という文字が並んでいた。分厚い冊子を取り寄せなくても、すべてその場で読むことができる。
私のころは、大学案内も願書も紙だった。
受験に関する情報を集めるには、高校の進路指導室へ行くか、書店で受験雑誌を買うしかなかった。
模試の結果や予備校の資料を見比べ、赤本を何度も読み返した。
今では募集要項も過去の試験問題も、画面を数回押すだけで出てくる。
便利になった。
その一方で、情報が多すぎた。
予備校の合格実績。
動画で授業をする講師。
受験生の勉強記録。
半年で逆転合格したという体験談。
『偏差値三十から東大へ』
『この参考書だけで合格』
『東大生が教える最短勉強法』
本当かどうかも分からない言葉が、次々と表示される。
私は公式の選抜要項へ戻った。
現在の東大の一般選抜も、最初に全国共通の試験を受け、その後に大学独自の第二次試験を受ける仕組みになっていた。
ただし、私の受けたころの「共通一次試験」は、もう存在しない。
共通一次はセンター試験へ変わり、さらに大学入学共通テストへ変わっていた。
国語。
地理歴史、公民。
数学。
理科。
外国語。
そこまでは理解できた。
だが、その中に見覚えのない教科があった。
「情報Ⅰ……?」
思わず声が漏れた。
内容を調べると、コンピューター、ネットワーク、データの活用、プログラミングなどと書かれている。
私の受験時代には、そんな教科はなかった。
そもそも高校生が一人一台の端末を持ち、インターネットを使って勉強する時代が来るなど、想像もしていなかった。
英語にはリスニングがある。
私のころは、印刷された英文を読み、紙の上で答えを書くのが中心だった。今の受験生は、限られた時間の中で音声を聞き取り、次々に判断しなければならない。
科目名も変わっている。
学習指導要領も、問題の形式も違う。
私は長い間、東大卒という肩書だけを握り締めてきた。
だが、私が知っている東大受験は、もう過去のものだった。
それでも、変わっていない部分もあった。
文科一類、文科二類、文科三類。
理科一類、理科二類、理科三類。
入学時に科類を選び、共通テストだけでなく、東大独自の記述式試験を受ける。
国語も、数学も、外国語も、暗記だけでは通用しない。
与えられた条件を読み、自分で考え、それを答案として表現する力が必要になる。
共通テストの成績がよくても、それだけで合格できるわけではない。
志願者が多ければ、第二次試験へ進む前の選抜もある。
そして最終的には、東大独自の問題で点を取らなければならない。
根本にある厳しさは、昔と変わっていなかった。
私は試しに、最近の数学の問題を開いた。
最初の一行を読む。
もう一度読む。
何を問われているのかは分かる。
だが、解答への道筋がすぐには見えなかった。
昔の私なら、手を動かしながら考え始めていただろう。
今の私は、問題を眺めたまま固まっていた。
「東大卒、か……」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
三十八年前に合格したというだけだ。
当時覚えた公式の多くは忘れた。
英文を読む速度も落ちている。
古文単語も、歴史の年代も、すぐには出てこない。
武藤さんに勉強を教えるどころか、今の私が受験すれば、足切りを通過できるかさえ怪しかった。
私はパソコンを閉じかけた。
やはり無理だ。
今から断った方がいい。
私には、人へ何かを教える資格などない。
そのとき、机の上に置いた一万三千円が目に入った。
不良たちに奪われ、武藤さんが取り返してくれた金だった。
――あなたと一緒に破滅してもいい。
あの子は、私の過去を知らない。
私がどれほど役に立たない人間なのかも知らない。
それでも、私へ手を差し出した。
これまで誰からも必要とされなかった私に、先生になってほしいと言った。
私はパソコンを閉じるのをやめた。
引き出しから、使いかけのノートを一冊取り出す。
最初のページに、三つの項目を書いた。
『武藤はるか』
『志望科類――不明』
『現在の学力――不明』
考えてみれば、私は武藤さんの成績すら知らない。
得意科目も、苦手科目も知らない。
文系なのか理系なのか。
東大へ入ったあと、何を学びたいのか。
何一つ聞かないまま、教えると約束してしまった。
東大受験まで、残された時間は二年半ほどしかない。
長いようで、決して長くない。
東大を目指す生徒の中には、小学生のころから中学受験の勉強を始め、進学校で六年間かけて準備してきた者もいる。
武藤さんは、その蓄積を二年半で追わなければならない。
しかも、鈴宮高校の授業だけで十分な準備ができるとは思えなかった。
だからといって、最初から一日十六時間勉強させても意味はない。
現在地を知らなければ、計画は作れない。
中学範囲でつまずいているなら、そこまで戻る。
単語が足りなければ覚える。
計算が遅ければ、毎日繰り返す。
まず必要なのは、東大の過去問ではない。
武藤さんが何を知っていて、何を知らないのかを確かめるための試験だった。
ノートへ、さらに書き加えた。
『第一回――学力確認』
国語。
数学。
英語。
中学校の基礎から、高校一年まで。
問題を一から作る時間はない。私はインターネットで各教科の範囲を確認し、使えそうな問題集をメモしていった。
気がつくと、窓の外が薄く明るくなっていた。
時計は午前五時半を示している。
身体中が痛かった。
眠気も残っていた。
それでも、私はノートへ書く手を止めなかった。
何十年ぶりだろう。
誰かのために、朝が来るのを待ち遠しいと思ったのは。
ノートの最後に、一行だけ大きく書いた。
『二年半で、武藤さんを東大へ合格させる』
それが無謀な計画であることは、私が一番よく分かっていた。
だがこのとき、すでに私は始めてしまっていた。




