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必要とされていない人

第18話 午前四時


病院で検査を受けた。


幸い、骨に異常はなかった。


顔や腹、背中の広い範囲に打撲があり、頭も強く打っているため、数日は安静にするよう言われた。


医師には、階段から落ちたと説明した。


「本当に階段ですか?」


腫れた顔を見た医師から確認されたが、私はもう一度、階段から落ちたと答えた。


診察を終えて外へ出ると、日はすでに暮れかけていた。


病院の駐輪場に、一台の黒いバイクが止まっていた。


大きな車体だった。


その横で、武藤さんがヘルメットを抱えて待っている。


「まさか、それで来たのか?」


「そうだけど」


学校でヘルメットをかぶっていた理由が、ようやく分かった。


ただ、校内へ入ってからも脱がなかった理由は分からないままだった。


武藤さんはバイクに取りつけられた収納部分から、もう一つのヘルメットを取り出した。


「これをかぶって」


「電車で帰るよ」


「駅まで歩けるの?」


私は答えられなかった。


病院の玄関から駐輪場まで歩いただけで、脇腹が痛み、息が切れていた。


「送っていく」


「でも……」


「守るって約束したから」


武藤さんは、当然のことのように言った。


私は渡されたヘルメットをかぶり、バイクの後ろへ乗った。


座席へまたがるだけでも、全身に痛みが走った。


「落ちないでね」


「どうすればいい?」


「私につかまって」


一瞬、ためらった。


女子高校生の身体へ触れることには抵抗があった。


結局、武藤さんの腰ではなく、後部座席の横にある取っ手を両手で握った。


エンジンがかかった。


低い振動が、傷んだ身体へ直接伝わってくる。


バイクが動き出すと、私は慌てて取っ手を強く握った。


夕方の街が、左右へ流れていった。


信号で止まるたび、車体の振動が脇腹へ響いた。


それでも、電車で立って帰るよりは楽だった。


武藤さんは何も話さなかった。


私も何も話さなかった。


今日一日で、あまりにも多くのことが起きた。


女子生徒へ余計な一言を言った。


不良たちに囲まれた。


金を奪われた。


服を脱がされた。


泣きながら、自分が東大を出たことを喚いた。


そして、バイクのヘルメットをかぶった少女に助けられた。


その少女を、東大へ合格させる約束までした。


朝の自分に話しても、信じなかっただろう。


三十分ほど走り、バイクは私のアパートの前で止まった。


古い二階建ての建物だった。


外壁の塗装は剥がれ、階段には赤い錆が浮いている。


武藤さんは建物を見上げた。


自分の暮らしている場所を見られたことが、急に恥ずかしくなった。


「ここでいい。ありがとう」


「部屋まで行ける?」


「大丈夫だ」


「さっきも同じことを言って、倒れそうになった」


「今度は本当に大丈夫だ」


私はバイクから降りた。


足が地面へ着いた瞬間、膝が崩れそうになった。


それでも、武藤さんに気づかれないよう踏ん張った。


「明日は休んで」


「君が護身術を教えると言ったんだろ」


「あれは冗談」


「冗談を言うようには見えなかったけどな」


「半分だけ冗談」


どちらの半分が本気なのか分からなかった。


「一週間後に来る」


「どこへ?」


「ここ」


「勝手に決めるな」


女子高校生を自分の部屋へ入れることにも抵抗がある。


「別の場所を探そう」


「じゃあ、それも一週間で考えておいて」


武藤さんはヘルメットをかぶった。


「おやすみ、先生」


返事をする前に、バイクは走り出した。


赤い尾灯が遠ざかり、角を曲がって見えなくなった。


私はしばらく、その場に立っていた。


誰かに家まで送ってもらったのは、何年ぶりだろう。


思い出せなかった。


部屋へ入ると、明かりもつけずに布団へ倒れ込んだ。


空腹だったが、何かを作る気力はなかった。


身体のあちこちが脈打つように痛んでいる。


天井を見上げながら、今日の出来事を何度も考えた。


本当に引き受けてよかったのだろうか。


三十年以上前に受験しただけの私が、今の東大入試を教えられるのか。


武藤さんは、本当に勉強を続けられるのか。


黒田派は、いつ報復に来るのか。


考えれば考えるほど、後悔が大きくなった。


それでも、握手したときの武藤さんの手の感触が残っていた。


私を必要としている人間がいる。


それが、どうにも信じられなかった。


私はこれまで、誰にも必要とされてこなかった。


家族は、東大へ合格した私を必要としていた。


会社は、役に立つ社員としての私を必要としていた。


だが、期待に応えられなくなった瞬間、誰も私を必要としなくなった。


武藤さんも同じなのではないか。


私が勉強を教えられないと分かれば、すぐに離れていくのではないか。


そんなことを考えているうちに、意識が沈んでいった。


夢を見た。


私は、小学校の教室にいた。


体育の授業で走る私を、同級生たちが笑っている。


場面が変わる。


好きだった女子生徒へ告白した私を、教室中が笑っている。


また場面が変わる。


東大の合格発表だった。


両親や教師が私の名前を呼び、肩を叩いている。


だが、私が振り返ると、誰もいなくなっていた。


次は、大企業の会議室だった。


上司が書類を机へ投げた。


「君でなくてもいい」


同僚たちが、私の横を通り過ぎていく。


呼び止めても、誰も振り返らない。


私は清掃用の作業着を着ていた。


長い廊下を、一人でモップがけしている。


拭いても、拭いても、床の汚れは消えなかった。


廊下の先に、武藤さんが立っていた。


私は必死に追いかけた。


だが、足が動かない。


「待ってくれ」


声が出なかった。


武藤さんの姿が、少しずつ遠ざかる。


やがて、黒いヘルメットだけを残して消えた。


周囲から声が聞こえた。


お前は必要ない。


東大を出ただけの役立たず。


誰もお前を必要としていない。


違う。


そう言いたかった。


だが、口を開いても声が出ない。


何本もの手が暗闇から伸び、私の腕や脚をつかんだ。


逃げようとしても、身体が動かなかった。


「やめてくれ!」


自分の声で目を覚ました。


暗い部屋の中で、私は激しく息をしていた。


寝汗でシャツが背中に張りついている。


身体を起こすと、殴られた脇腹が痛んだ。


夢ではない。


今日の出来事は、すべて現実だった。


枕元の携帯電話を手に取り、時刻を確認した。


午前四時だった。

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